2010/12/28 新国立劇場〈トリスタンとイゾルデ〉 | 好雪録

2010/12/28 新国立劇場〈トリスタンとイゾルデ〉

12月28日、私の今年の舞台納めはこれ。些か専門外ながら、批評の項に掲載しました。

今回の〈トリスタン〉は午後5時開演。終演は10時40分過ぎ。
曲の長さは当然にもせよ、先日の〈指輪〉しかり、2回それぞれ45分の休憩時間が長すぎる。
バイロイトのような屋外保養の特別な環境は別として、外国の劇場、たとえばヴィーンシュターツオパーの〈パルジファル〉でも、こんなに長い休憩は決して取らない。

何が良くないか。

ひとつには、聴いていて感興が切れてしまう弊が大きいのである。日本の事情を考慮しても、各回30分のインターヴァルが限度であろう。

これが能の場合、どんな大曲の間に置いても休憩は長くて20分。
歌舞伎なら、芝居茶屋時代の大昔は別に、30分の食事休憩が通例になったのは歌舞伎座に吉兆が開店して以来で、それまではもっと短時間だった。
「歌手の体力を考慮」というのは理由になるまい。45分の休憩を取らねば声が続かないような歌手に、そもそもヴァグナーが満足に歌えるはずはないのである。

注文を付けついでに、もうひとつ。
このごろ新国立劇場オペラパレスのロビーで、出店が邪魔をしているように思いませんか?

ちょうど中央の狭いところに、劇場グッズを販売するコーナーとプチシュークリームを売るブースとが隣接。壁際には立ち席のテーブルもあるので、さらに空間が狭まって、人の流れが滞る。以前は、このようにゴタゴタな出店はなかった。
これはいつの頃からか、何かのバレエ公演からのように記憶するが、私はオペラパレスの公演はほぼ毎回見ているけれども、こうなってもう相当経つと思う。

本来ロビーとは晴れの場であり、遊歩の空間である。酒茶やオードブル・小菓子の販売ブースが処々にあるのは歓迎するものの、何くれの売店や安っぽいパイプ椅子が占拠する場所ではないのである。売店を置くならば入口脇あるいはロピー奥の角とか、少なくとも人の流れを阻まない場所にすべきだろう。
「これも東洋的渾沌の産物だ」といえば仕方のないことにもせよ、建築そのものの美観(もっとも、私はこのロビーの意匠にほとんど魅力は感じないが)を活かすのが劇場の見識で、オペラハウスが宝塚大劇場のようになっては変だ、と私は思う。

と、いろいろ注文はあるものの、実際、今回の新国立劇場〈トリスタン〉初演は感無量でした。

私がオペラを初めて見たのは1978年3月、上野・東京文化会館での藤原歌劇団〈愛の妙薬〉。五十嵐喜芳が日本語で(その頃の在来団体の公演に原語上演など、まずない)歌うネモリーノを5階の座席から見て、今もよく憶えている。
既にいっぱしのオペラ好きだったその頃、専門雑誌等で音楽事情のあれこれにも接していたが、将来まさか日本の定打ち小屋で〈トリスタン〉が出るようになるとは夢想だにしなかった。

この、「定打ち小屋で」というのが実に大切なのである。

外国に住んでいる音楽好きの人と話すと、たとえばヴィーン在住のある方は、「リヒャルト・シュトラウスのオペラはDVDやCDでは殆ど鑑賞しない」と言う。何も根っから聴かないのではなく、「劇場で始終出るから、それを見て楽しめば済む」と。
なるほど、昔から私も〈娘道成寺〉や〈三千歳〉を録音で聴くことは殆どない。歌舞伎座で幾度も接するのが主な鑑賞法なので、そのうち言葉も節も自然と覚えてしまう。だから、私ならば〈娘道成寺〉は芳村五郎治の、〈三千歳〉は清元志壽太夫の、それぞれ声や節回しと不可分なかたちで身体に沁み付いている。
筋金入りの歌舞伎ファンならば、誰でもそうではないだろうか?
これは実に大切なことで、その意味でも「歌舞伎だけ」を専門に上演していた歌舞伎座が今「ない」ことは大きいのだが、これは話が逸れました。

ともあれ、創設以来13年。西欧オペラ藝術の何たるかを一面で象徴する〈トリスタン〉をようやくレパートリーに組み入れた新国立劇場が、オペラとバレエ専門の定打ち小屋として、これから毎シーズン意慾的な演目を、できるだけ廉価で、提供し続けてくれることに期待は大きい。

将来は観客の側でも実演者の側でも、新国立劇場という定点での実体験を足場に育った人たちが、血肉の通った音楽・舞踊愛好者として、同じ劇場への思いを共有するひとつの厚い層をなすようになったら、これはもう、実に素敵なことだと思いませんか?

2010年12月29日 | 記事URL

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