2011/1/16 更新日時上網+邦楽の聴衆 | 好雪録

2011/1/16 更新日時上網+邦楽の聴衆

トップページに各項目ごとの更新記録を上網しました。
まだ試運転段階ですが、何卒ご参考に。

原稿の締切が立て込んで、なかなか上網できません。
溜まっている批評等、週明け以降に記録に残したいと思います。
明日は日帰りで(舞台の見聞ではなく)京都に参ります。
今日は関ヶ原の降雪で、列車がだいぶん遅れていたようです。

本日は国立劇場の三曲の会を聴いた。

常々思うことだが、邦楽の世界に純粋な聴衆はどれだけいるのだろうか?
「純粋な聴衆」というのは、自ら稽古したことがなく、ただ聴くだけの人々、という意味である。
これは能にも、舞踊にも、またはピアノやバレエにすら幾分は抱く疑問である。

昔、能の見所は謡本と首引きの人ばかりだったとはよく言われる。
その時代、観世寿夫は、「純粋な観客」を養成しようと、かなりの努力をした。
時移って現在、能の客席には多くの「純粋な観客」が足を運ぶようになっている。

本日の三曲、すなわち箏や三弦(+昔は胡弓、現在では尺八)の世界はどうだろう。
ごく一部の曲目は舞地、つまり上方の座敷舞の音楽として弾き歌われるから、舞踊に趣味のある人はそれで親しむこともある。
だが、舞地となる曲目は三曲(多くは上方の地歌)のごく一部に過ぎず、テンポも中身も異なることが多い。
本来の三曲と舞地のそれとでは、往々にして文楽義太夫と歌舞伎竹本よりも内実が異なると思ったほうが良い。

つまり、劇場で接することができず、専門の演奏会も少ない(大半は自家リサイタルか門下の発表会だが、外部の聴衆に対して開かれているとは言い難い)三曲の世界では、聴衆=稽古人、という率が極めて高いのである。

これには功罪の二面がある。

自分が弾き歌うものだとなれば、聴いていて見ていて基本的なことはすぐ分かるから、ゴマカシが効きにくい。今日も帰り道にすれ違った誰かが、「あんなお琴の弾き方は、ないわよねぇ」と言い交わしているのを聞いたが、なるほど、それは正論だった。

ただ、素人の稽古人は、自分で弾けるレベルで、聞く耳を作りやすい。
だから、自分以上の藝に対して、「聞き分ける力量」を持ちにくいところがある。
音の強弱は分かっても、音色の浅深が分かりにくい。
遅速の聞き分けはできても、遅いということの意義、速いということの価値を判断するのは難しい。
これらは、自らがどういう見識で稽古しているかにもよろうが、結局のところ、自分で弾く、歌うとは別のところで「聴く耳」を持つ以外ない。
これはなかなか大変である。

地歌・三曲に限らず、邦楽の趣味は狭くて深いものだと思う。
箏にせよ三味線にせよ、楽器としての構造は比較的単純だ。
単純だというのは、ひとつひとつの要素にゆるがせにできない点が多いということでもある。
撥を握る小指や薬指にかける力。琴柱を動かし調子を調える微妙な音感。
そうしたもの一切が演奏の本質に影響を与える。
であるから、三曲の演奏の善し悪しを言うには、感覚的な言葉だけでは全く無意味。
実技に則し、音の深淵に立ち及んだ確固たる価値観がなければ、言挙げはできない。

そのためには、絶対的な名演奏に接する必要があると思うが、
その意味で私は、地歌・三曲の将来にほとんど絶望の感を抱いている。
今日の国立劇場での所感は、簡単に言えばこのことに尽きるのだったが、
それは後日、批評を試みることにしたいと思う。

2011年1月16日 | 記事URL

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