2011/1/29 近況など | 好雪録

2011/1/29 近況など

本日、批評を3件上網しました。
どれもこれも長文でというわけには参りませんが、それでもこうした媒介は字数の制限がないのがメリットではあります。

また、『能楽タイムズ』2月号に、昨年12月分の能・狂言批評を執筆掲載しましたので、ご興味の向きはご覧下さい。

ご覧のとおり、批評の対象が既に多岐に亙っています。
普段から見聞するものが多いので、自分なりに優先順位を付けております。

能・狂言>歌舞伎>日本舞踊>純邦楽>文楽>一般演劇>オペラ>バレエ>クラッシック音楽

むろん、大学での仕事もありますし、読書・調べものは大切ですので、こんなところでもう手一杯。たとえば映画など何年も見る折がありませんし、おそらく今後もそうした機会は持てないでしょう。

批評に取り上げるからには、私なりにある程度の専門性・技術性に言及できなければ意味がないと考えます。その意味で、たとえばオペラの批評は、原語に通じ、スコア(管絃楽総譜)が解読できなければ、本当のことはできないものと信じます。もっとも、私は昔ちょっとばかりクラッシック音楽実技を齧った経験がありますので、そんなことで〈トリスタン〉評を掲載しましたが、これはお笑い種という程度の文章です。

1月は新国立劇場の〈ラ・バヤデール〉を2度見ました。見聞予定には1日分記してありますが、別に1月15日にも見てきました。本来この日はザハロワがニキヤを踊る日だったところ、ある事情でキャンセルとなって、英国ロイヤルバレエの小林ひかるが出演。その健闘は讃えられる一方、当代一の妙技と称するに足るザハロワの代演だけあって、比較されると厳しいものがあります。

バレエに関しては、実際に踊ったことのある人が多いせいか、批評の分野では技術論の点でかなり精緻な成果がたくさん見られます。その点、印象評が過半を占める能・狂言や歌舞伎の批評とは、だいぶん状況が異なるようです。
技術論だけが批評ではないにせよ、そこから始めなければ単なる感想文で何にもならないということは事実。私はバレエの技術に精通しているわけではないので、原則として批評の対象からは外すようにしています。
ただし、これは、バレエを見て楽しめる、感を得る、ということとはまったく別。技術評が詳細に展開できなくても、舞台は充分に楽しめるものです。

が、「舞台から得た感を普遍化し相対化して他者に伝えよう=批評の形で示そう」とならば、技術論・技術評は避けて通れません。たとえばバレエにはバレエの専門知識がたくさんありますから、少なくともそれらをしっかり押さえておくことは不可欠。これを怠る人にバレエ批評を試みる資格はないでしょう。
と同時に、まったく異なったジャンルの立場から見る時、思わぬ参考や刺激になることは多くあります。私にとってバレエを見ることは、純粋な愉しみであり、なおかつ、わが国の古典演劇・藝能との比較文化的な視点を刺激してくれる大切な経験です。

昨年歳暮、1948年生まれの森下洋子の踊る〈胡桃割人形〉を見ました。実に美事なものでした。
が、このとき私は、大野一雄や武原はんや歌右衛門を見るのと同じ目で森下洋子を見ていました。バレエ的には「邪道」に相違ありませんが、一方でそういう見方も可能なのです。
その意味では、能を、歌舞伎を、より深く理解したいと思ったら、他ジャンルに深く(「浅く」では無意味)親しむこともまた大切だと、私は信じます。

2011年1月29日 | 記事URL

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