渋谷Bunkamura シアターコクーンにて上演中の〈サド侯爵夫人〉と〈わが友ヒットラー〉。
平幹二朗が畢生の名演技。
ことに〈サド侯爵夫人〉のモントルイユ夫人は必見である。
三島戯曲を役者が演ずる際に最も大切なことは、役柄の解釈ではない。
「解釈」などというチャチな内面性以前に、役者の職人性の根源である「完璧なセリフ術」を体得していることに尽きる。
言葉を噛む、呂律が回らない、アクセントがおかしい、そうした瑕は決して許されない。
驚くべきことに、平幹二朗は両戯曲の膨大なセリフを自家薬籠中に納めた上で、余裕さえ漂わせる。
まさに、偉大なる怪物である。
古典演劇を評する時は、なにがしかの専門性を踏まえた上で(簡単に言えば「勉強した上で」)論評を加えない限り、見当違いの誤解で終わりがちであるのに対し、現代劇はそうではない。
現代劇は、現代人が、現代人の価値観のみを尺度に、堂々と論じて良いものだ。
多少古くなったとはいえ、三島戯曲は現代劇である。
だが、すべて女装の男性=現代版女形によって演ぜられる今回の〈サド侯爵夫人〉は、通常の現代劇にはあり得ない設定である。
しかして、歌舞伎はもちろん能・狂言ですら、根源的な「女形藝」に立脚していることは明確である。
逆説的だが、今回の「ミシマダブル」に対し、平幹二朗のモントルイユに対し、正鵠を得た評語を下せない限り、現代の能や歌舞伎を批評する資格もまたないのではなかろうか?
繰り返すが、平のモントルイユは必見。
南美江の亡きあと、これほどのモントルイユが見られるとは夢想だにしなかった。
「六世中村歌右衛門以来最高の女形藝」と、小声の程度ならば言って良かろうと思う。
上演は3月2日まで。
当日券も若干は出る由。
私も無理してもう一度見たい、見ようかと思うほどです。
2011年2月11日 | 記事URL