2011/8/20 茂山忠三郎を偲ぶ | 好雪録

2011/8/20 茂山忠三郎を偲ぶ

本日、茂山忠三郎が亡くなった。満83歳だった。

私は、和泉流の狂言方を代表する藝の持ち主として亡き和泉元秀を挙げると同時に、
大蔵流の藝風を最も良く示す名手として忠三郎を挙げるのが常だった。
これは、現千作、現東次郎の存在を頭に置きつつ、あえてこう言うのである。

千作の豪放、東次郎の謹直、両人ともややもすれば極端に傾くその個性だが、忠三郎はこれらを中庸の美徳で中和し、常に温容を湛え、締めるところはキッカリ締め、程の良さを失わなかった。

忠三郎の舞台には、いつものどかな春光が射していた風情である。

大柄な人だったから、大名が実によく似合った。
いかにも鷹揚な、どこか抜けていて、だが藝品を失わない。
「大果報の者」と名のる、この家系特有のやや鼻に掛かった明るい忠三郎の声が、いま私の耳にしきりに響いている。

晩年は立居に自由を欠いて気の毒だったが、能の合間に〈柑子〉とか〈栗焼〉とか、身体が楽な小品を演じても、決して埋め合わせの感はなく、むしろ前後の能より堪能させてくれたこともしばしばである。

型のできる役者だったのに、東京で舞狂言を見せてくれる機会が少なかったのは惜しい。むろん、三老曲は当代の最適手であったに相違ない。

狂言方の藝を支えるのは、能の間ガタリである。これが拙くして、狂言の名手たり得ない。間ガタリがいい加減な狂言師の藝は、マヤカシである。

忠三郎の間ガタリの立派さ。
まだ正坐が可能だった2005年12月・能楽観世座第8回公演、観世清和のシテによる〈屋島 大事・那須之語〉はその頂点である。
居替わりの鮮やかさに老いの跡はなく、コトバあくまで明朗。
一気呵成に語り進めるのは誰でも同じことだが、その藝容の大きさ。
たとえば東次郎だと、青い波間にサッと落ち込む紅の扇の色が鮮烈に印象される描写の妙が圧巻だが、忠三郎は息を詰めていてもあくまで豊かで寛いでいる。屋島の合戦が3月18日、晩春の夕暮の設定であることが他の誰よりも思い起される、ふくらみと温もりのある、圧倒的な「那須之語」だった。
この時の手腕ひとつをもってしても、忠三郎が当代最高の名手だったことは疑いがない。

復興宗家と善竹家を出した家筋とはいえ、近現代の忠三郎家は、決して隆盛を誇ったとはいえない。

狂言の世界はよく言われるように「家内工業」で、弟子は優遇されないのが常だったから、狂言の家では何よりも男の子が多く生まれなければ勢いがつかない。忠三郎の藝を万全たらしめようと思えば手の乏しい自家だけでは不充分、他家との共演が欠かせなかった点、先代野村又三郎と境遇が似ていた。
千作・千之丞と忠三郎のトリオは、先代井上八千代や故人吉村雄輝の舞と並び、東京には決して見られない種類の、関西最高の藝だった。が、かといって、千五郎家の藝風そのものと忠三郎が完全に親和していた、とは思わない。
2008年 9月、国立能楽堂開場25周年記念公演・狂言の会〈唐相撲〉でシテ・帝王を勤めたのは忠三郎晩年の栄誉だったけれども、山本家・千五郎家混成の若手立衆は千五郎家のノリに圧されて同家風の盛り上がりを示す中、東次郎の日本人相撲取もそうだったが、忠三郎の老皇帝はひとり手持無沙汰の孤独さを漂わせ、気の毒な感じがした。
忠三郎の藝を盛り立てる環境が必ずしも調わなかったことは、子弟の数に恵まれなかった点も大きいとはいえ、その実力の偉大さを尊ぶ私にとって、しばしば誠に残念だった。

忠三郎自身、心中ひそかに髀肉の嘆をかこつ思いがなかったか。

それでも私の脳裏には、あまたの忠三郎の舞台が去来する。
〈萩大名〉、〈木六駄〉、〈素袍落〉、〈米市〉、〈月見座頭〉......
そのどれもがシテらしい堂々たる藝容を示し、温和で、しかも人生の真実を深く照らし出す深さを湛えている。

忠三郎の舞台に接し得たことは、私の人生の中でもとりわけ楽しい、嬉しい、心温まる幸福なことだった。
忠三郎が持ち、忠三郎しか持ち合わせなかったその藝の尊さを、私は今あらためて、心静かに追憶しようと思う。

2011年8月20日 | 記事URL

このページの先頭へ

©Murakami Tatau All Rights Reserved.