2011/12/28 対談の面白さと難しさ | 好雪録

2011/12/28 対談の面白さと難しさ

「活動記録」の項に挙げたように、『能楽タイムズ』からの依頼でこのたび2012年1月号に、梅若玄祥さんとの対談の聞き手を勤めた。
新年号だが、恒例で前月末に発行される。御用納めの本日、私の手元にも届いたところ。冒頭で「新年おめでとう存じます」と言っているのはご愛嬌とお考え下さい。

公開講座あるいは記事化のため「対談」の聞き手を依頼されることが年に何度かあって、毎回刺激的な経験が積めるのはありがたいことである。
2004年の世阿弥本〈雲林院〉新制作以来、演者と批評家との「距離」を測りながらも、玄祥さんとは打ち明けて話すことが多く、今回もまったく寛いだ気持ちで色々突っ込んで訊けたのは楽しかったが、自己流ながら、誰との対談でも事前に留意しておくことがある。

それは、
1)相手のことをできる限り詳細に調べ、2)こちらの質問や発言を準備しておき、3)予想される相手の回答や発言をシュミレーションしておくこと、である。
ただ、これらを設計図どおりにただ運ぶのは禁物。
なので私はさらに、
4)以上の準備を調えた上、実際にはメモも見ず、その場の成り行きに任せて、話題や発言の自然な流れを追う。
というように心がけている。

なかなかこれは難しいもので、文字化のための対談は編集が効くからまだ良いけれども、いわばライヴの公開対談の場合、対談そのものがパフォーマンスだからその場が沈滞してもいけないし、聴衆の皆さんの期待に応える必要もあり、手綱さばきに相当の神経を使うのが常だ。

考えてみれば、対談の仕事は、批評の仕事の根本に通ずるものがある。

対談の聞き手を勤める場合、まず、相手に対して「絶対的肯定と無限の興味」がなければ成り立たない。
誤解して欲しくないが、「絶対的肯定」とは単なる感情的好悪や贔屓の引き倒しではない。
「いかなる個性であれ、相手の個性をありのままに受け入れた上、一つの人間存在としてそれを尊ぶ」ということである。
いわば、根源的な礼節、とも言えるだろう。

「無限の興味」の実態の中には、相手の長所もあれば、欠点もある。前者を指摘されるのは誰でも嬉しいし、後者を論われるのは誰でも不快だ。
ただ、長所ばかりを褒め称える対談ほど退屈なものはない。
優れた対談となるには、聞き手としては、必要とあらば相手の欠点にも触れることをあえて辞さず、その指摘が相手に益する文脈の上で冷静・的確になされ、決してこちらの悪意による感情的な発言とならないこと、が肝要だと思う。

これは、批評の要諦とまったく同じだろう。

今回の対談も、果たしてそうなっているかどうか。
ご興味の方は、新刊『能楽タイムズ』をご覧下さい。

ちなみに、こうした文字化された対談は、実際の対談50%、文字化の作業50%、というのが神経の使いようである。
今回も編集部が作成した草稿を私が全面的に改稿、発言の順序なども入れ替え、玄祥氏の真意も充分に確認した上での記事である。その際も、後補の発言は極力避け、当座の流れと雰囲気を大切に、一種のライヴ感覚が消えないよう留意したつもりだが、読まれる方はどうお感じだろうか。

2011年12月28日 | 記事URL

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