2011/12/29 やはりテレビは見ないといけないのか? | 好雪録

2011/12/29 やはりテレビは見ないといけないのか?

今年元日の「好雪録」にも記したとおり、私はテレビをほとんど見ない。
加えて、新聞も必要最低限しか手に取ることはないし、雑誌類も同様。
日々の情報は電網上のニュースと電車内の吊り広告(これはバカにできません)で充分。
これで社会的分析はまずまず可能だ。

しかし、それだけだと時として予想外の誤りが生ずることがある。

それは、語の「読みかた」である。

憚りながら私は昔から、一度「こう」と憶え込んだ字や語句の「読みかた」については、まず間違えない。難しい珍字でも、意味はともあれ、「読みかた」だけは困らないことが多い。
それだけに、一番初めの段階で、ルビなり注記なりで正しい「読みかた」を知っておく必要がある。

最近の民間放送は視聴者に対して過剰な情報を垂れ流す分、字幕を多用するけれども、これは聴き取り不可能の言葉の補強が目的。それにルビが振られていることはまずない。
もとより、戦前と異なり、新聞や雑誌の記事にルビが振られていることはごく少ない。

「楽しんご」という藝人?がいる。
私は最近まで彼を「らく・しんご」だと思っていた。
だって、「楽」が藝姓、「しんご」が藝名、でしょう。
「楽」字単独では「らく」。これを「たの」と読めというのが無理難題というもの。
千家十職「樂吉左衞門」と同じで、普通どう考えたって「らく・しんご」君である。

そう言えば昔も同じようなことがあった。
「『うる星やつら』は、どう考えても『うるホシやつら』であって、『うるセイやつら』というヘンな読みかたは認められない」と主張したところ、「そういう野暮を言うほうが『うるセイやつら』なのであって、そう決められているのだから仕方がない」と言いくるめられたことがある。

「楽しんご」君のことに戻れば、それもこれも、私がテレビを見ない(+聞かない)のが原因である。
実際、「楽しんご」君の顔や行動だけに限っては、私は相当昔から熟知していたのだ。
ただ、耳にその名を聞かなかったので、「楽しんご」を「たのしんご」と読ませることを知らなかっただけのことである。

折角のご縁ゆえ、「楽しんご」君の藝?を、YouTubeで一度、拝見した。

何と申そうか、実に挨拶に困るのだが、まあともあれ、来年も「楽しんご」君の自愛加餐を遠くから祈るばかりである。

(ここまで書いて思い出したが、JR山手線の車内に無音声で流れているCFの内、東京ガスストーリーに「楽しんご」君が出演、端役ながらも中々の存在感を示している。これを同社HPで音声入りで再見すると、妻夫木聡が創り出そうとする、いかにも「らしい」雰囲気を「楽しんご」君が相対化し、風穴を開けているのは美事である。)

時の人・橋下徹大阪市長。
つい最近もうっかり「ハシシタ」と言って学生に注意され、恥じ入った。

もっとも、テレビを見ない私も、彼の行動や発言は、藝人?弁護士時代から逐一、承知している。
私にしてみれば、普通そうは読めない「橋下=ハシモト」と当たり前の如く擦り込まれると同時に、根拠なき親近感を抱き、奇怪・危険極まりない彼の言動を無反省に支持している人々が沢山いることのほうがよほど恐ろしく、同時代人として恥ずかしいのである。

2011年12月29日 | 記事URL

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