2012/1/17 大阪府君が代条例 | 好雪録

2012/1/17 大阪府君が代条例

私が最近接したニュースの中で最も憂慮するひとつに、表題の条例問題がある。

モノによって思想を固定し法をもってそれを強要することは、慎重の上にも慎重を期さねばならない。

今回の条例問題に欠落していることは、「国歌とは如何なるものか」「〈君が代〉とは如何なる歌か」「国歌を歌うとは如何なることか」「国歌は誰のためにあるのか」「国歌の意義とは何か」ということに対する多様な議論である。
根源的にそれがなされぬうち、平成11年(1999年)に〈君が代〉は国歌となった。

「国歌」があるからには、「国家」のかたちのありようも確固として伴わねばならない。
ところが、「国家」を代表する「国家元首」の規定は日本国憲法に明言されていない。
〈君が代〉の「君」をyouだと考える愚か者はまさかいはしまいと思うが、では、誰なのか?
誰に対して捧げられているかも明確でない歌を「国歌」として良いものだろうか?

既にこのHPの上網文でお分かりのように、私自身は当今の陛下を心から尊敬申し上げている。さまざまな問題の渦中におられる皇太子殿下に対しても、さまざまな理由からやはり尊崇の念を抱いている。
だがそれは、人の上に立って現実に生きる一人の人間としての天皇なり皇太子に捧げる敬愛の念であり、「魂の伴わぬ抽象存在としての天皇や皇太子」に対する感情ではない。
同様に、明治13年(1880年)に名作曲家・奥好義が作曲、国歌制定委員たる名代の伶人・林廣守の名で発表され、海軍軍楽教師フランツ・エッケルトが和声を加えた〈君が代〉を、個人的に私は甚だ愛する。
ただし、これらは私の個人的な価値観であるに過ぎない。

良識というものは、場面や立場によって容易に変動するものである。
個々の属する最も身近な社会で、そうした「良識」は最大限重んぜられなければならない。
ことに藝道では、最も小さな「社会」である師匠と弟子との関係において、余人の測り知られぬ「良識」は厳として存在しなければならないと信ずる。

「烏を鷺」と称することすら、その中では充分あり得るのである。

先代桂文樂は、心酔し師事した三代目三遊亭圓馬について「舐めろと言われれば、圓馬師匠のゲロだって舐めた」とまで明言した。
師弟関係とはそうしたものだし、また、そうでなくてはならないものである。
だが、直接ではない、ちょっとでも間接の関係となれば、それは成り立たない。
直接の関係もない人間に自己の良識を振りかざして「ゲロを舐めろ」と強要したら、それはもう犯罪以外の何ものでもあるまい。

国家あるいは自治体というものは、国民や住民を直接「支配」するものではない。
ましてや、個々の心情に介入し、良識の強要ができるものではない。
私にとって「大阪府君が代条例」は、大阪府民に対して行政が「俺のゲロを舐めろ」と強要する掟のようにしか思われない。

大阪府にとって、〈君が代〉の「君」とは何なのか。
もしそれが(一般的に考えてまずそうなるように)「君=(実質的国家元首たる)天皇陛下」であるならば、平成16年(2004年)10月28日「秋の園遊会」で、東京都教育委員・米長邦雄が「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と発言したことに対し、今上陛下がハッキリ「強制になるというようなことでないほうがね、望ましい」とおっしゃったご深意を、どのように解するのであろうか。

2012年1月17日 | 記事URL

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