2012/1/29 邯鄲男と神体 | 好雪録

2012/1/29 邯鄲男と神体

相不変養生中。
皆さまどうぞ風邪にはお気を付けを。

さて、表題は能面の名称である。

梅若研能会で『橘香』という月刊機関紙を出している。
本日送られてきた2月号を見ると、表紙の写真が都志善右衛門作の神体。
まことに美事な名品である。

都志善右衛門は室町時代の面打ちで詳伝不明。この1枚はその貴重な遺品だ。
詳細は、同家蔵の能面写真集『能面手鑑』を図書館等でご覧願うと良い。

神舞の後シテには邯鄲男を用いるのが現在の通例。
私はこれを見るたびに、いつも落ち着かない気がする。

邯鄲男は〈邯鄲〉の専用面。言わずと知れた「人生に苦悩を抱く俗人」の容貌である。
眉根に小皺を寄せた深刻な表情が、一種、森厳な感じを思わせ、江戸時代に入り脇能に常用されるようになった。

現在では化生のモノに用いる三日月が昔の神の面で、現在でも小書で強い神舞を舞う時にはこれを替として用いる。
神体は、邯鄲男にお株を奪われる前に、三日月よりも端正に創作された面であろう。
遺例も少なく、名品がほとんどない現状を考えると、この面の特殊性が思われる。
ちなみに、〈船弁慶〉の後シテなどに用いる鷹も本来は「多賀」、すなわち多賀大社の祭神・イザナギノミコトの心で、やはり三日月と同じ強烈な神威を示す面だったはずだ。

神舞を舞う役に邯鄲男を流用し始めた理由は幾つかあるだろうが、やはり「もったいない」という思いがあったのではないか。
〈邯鄲〉は古来抜群の人気曲だから、この専用面を具えない流儀はない。
そうすると、打たせたは良いが、使用の機会が限られる。それは「もったいない」。
同じ専用面でも景清は盲目で流用はもともと無理。俊寛や弱法師は能として上演が中絶。山姥は甚だしい異相。
そうなると、頼政や邯鄲男あたりが「何とか使えないか」ということになったのだと思う。
(ちなみに、邯鄲男と違ってまず流用不可能なだけに、頼政の面はごく少ない)

誰か知らぬが、後者を脇能に用いる「知恵者」が出たのでみなそれに倣った、ということになろう。
私は、これは一種の「誤読」だと思う。

神とは超人間的な役柄である。
そうした役には、超人的性格の象徴として金輪が目に入るのが掟。
邯鄲男の目に金輪は入っていない。

江戸時代は式楽としての能の上演形態が整備された時代だった。
正式演能は、たとえ翁を欠いても五番立てが常態で、脇能は最も上格の能とはされたが、半面これは儀礼的な価値観。
藝の観点からは、現在と同様、三番目物が重んぜられたのは自然の趨勢である。
表面では重んじても内実は形式主義に陥ったのがこの時期の脇能で、腕の劣る大夫だと翁・脇能を担わされる以外さして顧みられないシビアな傾向は、江戸時代の番組を見ると容易に想像される。

私は、色々な意味で、江戸式楽の価値観を頭から否定して桃山以前にのみ創造の原点を幻視することは多くの場合疑問であり、役者や研究者の恣意に陥りやすい誤認と考える。
と同時に、邯鄲男を脇能に用いる「常識」は式楽化の負の面として否定すべき曲解の一つだと思っている。

2012年1月29日 | 記事URL

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