2012/2/12 エディット・ピアフ | 好雪録

2012/2/12 エディット・ピアフ

先日、ちょっと必要があって、ピアフの持ち歌で何が良いか、数え挙げた。

さすがに私も、奥深いシャンソンの世界を潜行する度量は持ち合わせていないけれども、私の生まれる前々月に世を去った彼女の歌声は、既に歴史遺産となって、音楽やコトバを考えるために通り過ぎることはできない一つの「規範」となっている。

昨秋、大竹しのぶがピアフに扮して神懸かり的な演技を見せた。シャンソンの持つ同時代性と厳しい批評性が、そこにどれほど反映されていたかは疑問である。亡き越路吹雪が歌い広め、日本にシャンソンのひとつのイメージを定着させた岩谷時子の邦訳が、常識や権威への「異議申し立て」を稀釈した口当たりの良い浪漫調になっていることはしばしば指摘されるが、もともと日本人は藝能をそのようなものとして扱いがちなのである。

すべての藝術は、根源的に批評精神を秘めているものだ。

ピアフの死の際、パリ大司教は故人の不行跡を忌んでミサの挙行を拒んだ。今なら人権問題やらで指弾され、大問題になるに違いない。
が、こうした厳格な、大衆の感情とは隔絶した絶対的な権威が聳え立ったからこそ、ピアフの歌の批評精神がより輝いた、というパラドックスを忘れてはならない。

逆に言えば、政治が「大衆」に直接語り掛けて「民意」を活かそうとするモノ分かりの良い態度を見せる時ほど、藝術にとって危険なことはない。
こうした政治と大衆が直接手を結んだ(ように幻想される)時代になると、批評精神を抱く者すなわち「大衆の敵」になるからである。

たとえば「政界の寝技師」がゴロゴロしていて、隠れた巨悪が犇めいていた時代ほど、「大衆」と政治の緊張関係は強くなり、そこに批評精神が生ずる道理。
一地方都市の首長が政治的徒党を組めば3,000を超える信奉者が出、ここに「民意」を反映させられると信ずる「大衆」がこれを支持する今、批評精神の行方は暗澹としている。
その意味で、「ブログやツィッターが盛行すれはするほど社会的に批評精神は衰える」という構造を、どれほどの人が理解しているだろうか。

ピアフの話題から、大きく外れてしまった。

私が愛するピアフのひとつは、'Les Trois Cloches' (谷間に三つの鐘が鳴る)
これも本来、キリスト教の、カトリックの思想の根本が分からないと、恐らく本当のところは分からない。
ヨーロッパ社会の批評精神は、カトリシズムとの緊張感と軋轢にひとつの源があるはずだ。
明日、名古屋で千穐楽を迎える〈ラ・カージュ・オ・フォール〉も、こうした視点で見なければ、その真価は隠れてしまうだろう。

2012年2月12日 | 記事URL

このページの先頭へ

©Murakami Tatau All Rights Reserved.