2012/2/20 閉店 | 好雪録

2012/2/20 閉店

酒呑みの端くれなので、行きつけのお店というのがそこここにある。
今週、その中で最も大切に思っていた一軒が閉業する。
主人が重い病なのである。

病身と言っても、まだ60になるかならぬか、昨冬はじめまではそんなことはなかったらしい。
というのも、何度訪ねても異例なほど早く店を閉めていて、掛け違い逢えなかったのだ。

何でも、常でさえ見つけにくい部処の患いだと聞き、と胸を衝かれる気がした。
今年に入って面白くない病勢だと分かってからは、代理の若い人が店に立つようになって、爾来、店主は療養生活に入っている。
自分で自分の病気のことは良く分かっているから、もう周囲の者にあれこれ言うべきことはない。もはや店主は店に立てなくても今週の金曜日までは潔く営業を続け、仕舞をつけてから故郷に帰って身を養うそうだ。

酒場というものは診療所のようなもので、酒を出すのは薬の調合に良く似ている。
ウィスキーやワインをただグラスに注いで出すだけなら誰がやっても同じように思うだろう。が、それは違う。水割り、ましてカクテルとなれば、それを作る人によってびっくりするほど味が違う。
これに加え、用いる酒器。店内の装飾。何よりも客捌きと会話術。いや、何も言わず、ただそこにいることがひとつの自然な「藝」になってこそ、酒場の店主というものである。

都心では今どき珍しい木造の2階。8名入ればもう一杯という狭さ。グラスはバカラとラリックで揃え、季節に応じた大枝の花が豊かに活けてあり、流れる音楽も静かで品がある。かと言って、酒客同士、下らないバカ話をし放題に交わすことのできるこうした店は、私の知る限り、まずほかにはない。
その中で、話せば幾らでも突っ込んで話せるのに、まあ大抵は笑って黙っているような、店主の人柄を愛して通う人は多かった。

「誰にでも教えたくなる店」というのがある半面、「誰にでもは教えたくない店」がある。
私の中で後者に属するかけがえのない場所が消える。
何とも寂しく、虚しい。

2012年2月20日 | 記事URL

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