2012/2/21 和装のプロトコール | 好雪録

2012/2/21 和装のプロトコール

人に頼まれて、付き合いのある呉服屋で婦人物の和服の柄行きを見立てることがあった。

もっとも私自身、残念ながら、婦人物の和服を自分で身にまといたいと思う趣味はまったく持ち合わせていない。
ただ、地合いや彩りや模様などに「見る立場の好み」があって、趣味の良い好みの和装の婦人に接するとははなはだ心地よい。うんと幼い時分から、母や祖母の着る和服には自分なりの好悪があって、あれこれ言っていたのを思い出す。

そこで問題になるのが、婦人用和服の着用基準、いわば「和装のプロトコール」である。
紋ひとつ取っても、色紋付には五ッ紋か三ッ紋か。訪問着には紋を入れるか入れないか。付け下げに紋を入れても良いかどうか。こうしたことに諸説あって、一向に定まらない。
個人的に私は、比翼と伊達衿というものが大キライなのだが、理由を説明しなくてもそれを察してくれる人はごく少ない。

想像するに、現代の和服は多くの場合おしゃれ着であり、さらには礼服である。おしゃれの場や儀礼の場に臨む価値観が着用者の側に厳然と具わっていれば、そこから割り出して万事は解決するはずである。
ところが、現代ではハレとケの区別が曖昧となり、広い意味で儀礼に対する認識が欠け、代わりに「自分は是非これを着たい=場よりも自我」という風潮が際立っているので、余計に現場が混乱するのである。
これに加えて、呉服屋の価値観=ともかく売れてもらわなければ困る、という意図が交ざるから、事態はまことにヤヤコシクなる。

往々にして、個性的なおしゃれを楽しんでいる人は、服装が個性的であるよりも、人間そのものが個性的である。
人が服装に負けてしまうと、それは個性的というよりも、値札やブランドの広告体となったのにも気づかず意気揚々と歩き回っているように見えるのが常で、実にみっともない。
「馬子にも衣装」とは、諸刃の剣なのだ。

和服の場合は、着こなしによって品の価値に雲泥の差が出る。いくら趣味と仕立てのよいものを着ていても、衿元に締りがなく動作に優雅さを欠いていれば、まったく三文の価値もないように見える。

時々女性に、和服を積極的に着たいのですが、という話を持ち掛けられる。私は決まって、「それなら何か伝統的な稽古事を、何でも良いから始めると良いですよ」と答えることにしている。和服を着て、動いて、身に慣らすには、それが一番効果的であり早道である。

そうした稽古事には、必ずその道なりのプロトコールが定まっている。それらにはそれぞれ違いがあり、例えば茶道の稽古をしても表千家と裏千家では儀礼のありようは時として全く異なるし、同じ流儀の中でさえ会派によって細部に差異があることもしばしばである。
ただ、それに従事する人は己が所属する世界のプロトコールを基本として行動すれば良いわけで、その確信さえ具わっていれば、他に対して安定した自信が持てる。
偏狭な個性を脱し、もっと大きな個性に同化できるのが、こうした場合の強みである。

言い換えれば、自我にのみ拠って立つ個性の表出はそうした信念を欠きがちであるので、時として「自己主張」が「言い訳」に見える道理である。

呉服屋でいえば、やはり、古典的な衣装の品を数多く揃えていることが大切。そうした筋の徹った和服によってより強靱に磨かれる女性の個性というものがあるのである。
そんな意味で、和服を美しく着こなせる女性たちが今後もっと増えて欲しいと思うのだが、これは別に呉服業界の宣伝ではありません。

2012年2月21日 | 記事URL

このページの先頭へ

©Murakami Tatau All Rights Reserved.