2012/2/24 「当たり役」とは? | 好雪録

2012/2/24 「当たり役」とは?

雀右衞門の逝去に伴い例によって新聞諸紙に追悼記事が出たが、中に、一昨年の最後の舞台について「存在感に客席から喝采」という意味合いのものがあった。
まあ、老女形に「存在感」、不調を押した名優の出勤に「喝采」、誰が書いても出てくる常套句だから一面仕方がないとはいえ、これではあまりに「事実」に反する。
昨日の拙稿をご参照頂きたい。

確かに、字数の制限が厳しく、専門外の多数の読者を想定しなければならない新聞記事を書くのは難しく、特殊な才覚が必要である。
それだけに、新聞記事「だけ」に慣れてしまうと、本格の批評は書けなくなると、私は思う。

マスコミ取材の要諦は、広くリサーチし、「これ」というキーワードを軸に大胆に切り捨てて、記事に集約することにあろう。
それだけに、一言で言えば「単純化」の過程を採らざるを得ず、よほどの見識を伴わない限り、誰が書いても同じような無難なものに纏まりがちである。

昨年、中村芝翫が亡くなった時、「当たり役は〈娘道成寺〉」とした記事が多かった。
これは本当だろうか?

芝翫の〈娘道成寺〉は確かにすばらしかった。
が、私にとって本当の意味で「すばらしかった」のは1983年11月の歌舞伎座で、この時は五世福助五十年祭とて珍しく成駒屋型の演出を加味して踊ったのを頂点に、爾後、上演を重ねるたびに遜色の度合いを重ねて行った。
これは、体力の減退や技術の衰えということだけではない、もっと別の、芝翫論の本質に関わることだと思う。

言い換えれば、1988年11月に歌右衞門が、既に全曲を通して踊りきれなくなっていた中、一種の執念によって芝翫との〈二人道成寺〉に仕立て、そのクドキでそれまでの役者人生の集大成を「語って」見せてしまったような舞台は、そうはあり得ない「奇蹟」なのである。

雀右衞門にしたところで、私が昨日も触れた1986年3月28日「第7回雀右衞門の会」の〈娘道成寺〉に比べれば、その後、雀右衞門が歌舞伎座の本興行で〈娘道成寺〉を正式に出せるようになってから(上演履歴を検めれば分かるが歌舞伎座で〈娘道成寺〉を踊ることにはそれだけの重みがあった)の所演は、遜色のあるものと考える。
※歌舞伎座本興行における〈娘道成寺〉、特に道行を完備した上演には厳しい格式がある。雀右衞門が初めて踊ったのは満69歳の1989年12月。爾後、1991年4月、一世一代を謳った1996年4月の計3回(うち1991年は道行ナシ)。同じく、芝翫が初めて踊ったのは満48歳の1976年10月。爾後、1983年11月、1993年11月、1997年4月(途中休演)、2000年9月の計5回(うち1976年と1997年は道行ナシ)。ちなみに、六世中村歌右衛門は1951年から1978年までに計12回、七代目尾上梅幸は1952年から1976年までに計9回(いずれも〈ニ人道成寺〉や〈三人道成寺〉の変則上演は含まず)。なお、歌舞伎座だけではない戦後の諸劇場の本興行での総上演回数を見ると、歌右衞門30回、梅幸24回、雀右衞門12回、芝翫9回、という数字が出る。参考までに現存者の諸劇場本興行〈娘道成寺〉上演数では、坂田藤十郎・尾上菊五郎・坂東玉三郎のそれぞれ11回、中村勘三郎の8回、中村福助の6回、が多い。(2012年2月26日追記)

断っておくが、これは芝翫や雀右衞門に対する誹謗の言葉ではない。
1983年の芝翫や1986年の雀右衞門が、どれだけ比類ない〈娘道成寺〉を踊りなしたか。その事実への讃仰の言である。
と同時に、1988年の歌右衞門ほどの「奇蹟」が生じない限り、〈娘道成寺〉というものは「年を取った分よけい円熟してより良くなる」ような甘口の演目ではない、ということである。
私は〈娘道成寺〉という名曲かつ難曲を、役者の手垢でどうにでもなるような安易な演目と考えたくはない。

役者自身が色々な役や演目に思い入れを抱くには、個々それぞの理由があろう。
ただ、「誰のこれが『当たり役』である」と観客が認定するには、相応の見識と観察を欠いてはならないはずである。
役者が当たり役を持つのは、実はきわめて難しいことなのだ。

芝翫の、雀右衞門の、本当の「当たり役」とは、何だったのだろう?

2012年2月24日 | 記事URL

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