2012/2/23 梅早し面影偲ぶをんながた | 好雪録

2012/2/23 梅早し面影偲ぶをんながた

ついに京屋・四代目中村雀右衞門が亡くなった。

この人ほど舞台の成果を挙げて幸福な晩年を送った女形は、近年ほかにない。
その意味では、私は「名優」になった後しか知らない十三代目片岡仁左衞門と並ぶ歌舞伎役者だろう。

雀右衞門はその女形たる宿命として、「歌右衞門に対し如何なる自己を確立するか」という公案が生涯を通じて課せられていた。
関西歌舞伎逼塞時代のことは、むろん私は見聞していない。
歌右衞門が衰え、(芝翫でなく)雀右衞門がその代役を埋めるようになり、やがて亡くなってからでも、たとえば1995年4月〈吉野川〉定高、1996年10月〈先代萩〉政岡、2002年9月〈籠釣瓶〉八ツ橋(いずれも歌舞伎座)のような役々では「歌右衞門の代用」の域を脱することはできなかった。

その昔、雀右衞門の舞台はびっくりするほど気抜けしていることも多かったのだ。
忘れもしない、まだ「集大成」を迎える前の〈陣屋〉の相模や〈河庄〉の小春で、仕事のない時は鬘が前にグラグラ倒れるほど舞台で居眠りし、演技の直前では何故か巧みに目ざめて動いていたのを、私の近くに坐って見ているオバサン達も「あら、あの人また眠ってるわ(笑)」とヒソヒソ話していたものだ。

だが、それで終わる雀右衞門ではなかった。
後年、ことに2001年3月31日に歌右衞門が亡くなった後の雀右衞門は、人が違っていた。内的な「気」の充実ぶりが尋常ではなくなっていた。

相模、〈吃又〉お徳、〈毛谷村〉お園、〈豊後道成寺〉、〈六歌仙〉小町、雪姫、時姫、〈女暫〉、そして2000年9月の歌舞伎座まで亡き富十郎と競演し続けた〈二人椀久〉。
これらは、たとえ歌右衞門が同じようにやったとしても、雀右衞門の成果は揺るぎもしないと思わせられた、気迫の充実した至高の舞台だった。

たとえば相模は、1985年12月の京都・南座(二世松緑の熊谷)で演じ納めるまで歌右衞門にあれほどの名演を見せられ続けた役である。
しかし、2005年11月歌舞伎座で雀右衞門が当代仁左衞門の熊谷を相手に最後に勤めた相模は、もはや「歌右衞門の代用品」ではなかった。
「日もはや西に」で正面襖から歩み出、「夫の帰りの遅さよと」で二重端で膝をついて思案の態まで、歌右衞門は「今日、相模は何を食べたか」まで分かるような密度だったが、雀右衞門にそうした克明な演技内容はない。雀右衞門は顔つきも手ぶりも足取りも一見無表情に、それでいて三番目物の居グセで何もせず地謡や囃子を受け止めたままジッと坐り続ける能役者のように、もっと抽象的で雄渾な、「ドラマ」の根源を押さえた手強い存在に徹していた。
以前ならば大コケにコケるほど居眠りしていた熊谷の物語の間や、クドキの後の長い時間、二重の上にじっと坐ってうつむいている間の自然体の緊張感のすばらしさ。
私は「何もしていない」雀右衞門から少しも目が離せなかった。
歌右衞門のように微に入り細を穿った芝居ではない、ただ一をもって貫く強さは、晩年の内的な「気」の充実をもってして初めて完成を見たものと言えるだろう。

もちろん、舞踊では際立って卓越していた。2005年9月歌舞伎座の〈豊後道成寺〉、2006年4月同座での荻江節〈高尾〉、2006年9月同座〈六歌仙〉小町などで示した、ただ立っているだけで腰が据わり、無限の動きを感じさせる、比類ない身体能力。
私は、2000年以前のまだ元気活発な頃の〈二人椀久〉はもちろん、1986年3月28日に歌舞伎座で開催された「第7回雀右衞門の会」において常磐津の道行で踊った〈娘道成寺〉の、衣裳の褄や足袋足の先が空間を非情に切り裂いてゆく恐ろしい切れ味を、まるで昨日のことように思い出す。
晩年の雀右衞門の「ただ立っているだけ」の充実は、こうした「動けて動けて仕方がない」ほど技術的に高度の域に達した身体性を尽くした後の充実だったことを、われわれは忘れてはならない。
これは、「存在感」なる陳腐な判断停止の評語だけでは決して掬い取れない藝位であり、達成である。

一昨年2010年1月19日、歌舞伎座お名残初春興行の夜の部〈春の寿〉女帝で、初日から休演のところ、この日一日だけ勤めたのがお名残だった。
私も報せを得て、当夜の舞台を待ち受けた。
曲半ばに背景が飛ぶと、セリ上がる(本来はその演出)までもなく、雀右衞門の「女帝」がそこに「いる」。
背を赤布で隠した椅子に腰掛けたまま、エプロン状に綴り合わせ十二単に見せた衣裳様のものから首だけ出して全身を隠し、一曲中ついに一度も手も動かさず、ましてや立ち上がろうとはしない。
京屋は舞台上手に向いてうつむいたきり、視線は死んだ魚のように虚ろで、生気のカケラもない相貌。
「いる」というよりも、ただそこに「置かれている」状態。
あ、表情がちょっと変わった、口が動いた、と思ったら、大欠伸をしてのけた京屋の醜態を覆い隠すかのように一曲が終わると慌ただしく幕が閉められたあと、休憩時間のロビーは通夜のような沈痛さに包まれ、見てはいけないものを見てしまい悲愴な表情を隠しきれぬ人の姿がそこここにあった。
聞けば、服用薬の効き過ぎによるアクシデントだったと言う。
当夜の雀右衞門出勤は、取り壊しを前にした歌舞伎座の舞台踏み納めの花向けだったのだろうが、この名優の生涯を通観するに、やはり画龍点睛を欠く処置だったと言わざるを得ない。

このように周囲の配慮を欠いて有終の美を飾ることに失敗したのは痛惜の至りではあったが、前述のような気迫の充実した老年の一時期、同時代の誰よりも苦労の体験を積んだ雀右衞門の強靱な舞台成果が近代歌舞伎史に燦然と輝く偉業を示した事実に、何ら疑いはない。

子息の芝雀や友右衞門に対しても満足な指導を与えたとは言えない雀右衞門は、本当の意味で孤高の女形だった。

どんな藝談にも公開できずに終わった深い闇から花開いた人造の名花の「いつわり」を、〈大石最後の一日〉おみののセリフのように、老いての後に根から「まこと」に返して威風堂々と散って行った、一代濃艶の名女形だった。

2012年2月23日 | 記事URL

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