2012/3/14 ミュージカル〈スリル・ミー〉 | 好雪録

2012/3/14 ミュージカル〈スリル・ミー〉

近ごろのニュースで最もあきれ、かつ、情けなかったのは、卒業式参列の教員がキチンと〈君が代〉を歌っているかどうか、大阪府立和泉高校の校長が教頭に命じて、参列教員の口元の動きをチェックさせた、という実に馬鹿げた一件である。
大阪市長が「トップとして当然だ」とこれを擁護したらしいが、法というものの恐さと滑稽さを象徴する発言。そして、この2人とも、「法を守り矩を越えない」理性の人ではなく、むしろ「法を弄する」立場に立つ弁護士出身であることは一考に値しよう。
ヒトラーが政権を握ったのもオーストリアを併合したのも、すべて合法的手段に依っていた事実を改めて肝に銘じなければなるまい。

それから思い付いた訳ではないが、初日を迎えたミュージカル〈スリル・ミー〉は法曹志望の若者2人の「破滅」の物語である。

1924年に実際に起こった男児惨殺事件を題材に、米国のエリート社会に底流するホモセクシュアルの問題を、現代のデートDVに直結する支配・被支配の関係性に置き換えたもの。
ニーチェの超人主義(すでに古臭いこの思想に当時の時代性がある)に染まった独善的な「彼」に引きずられ、優等生の「私」もまた次第に罪悪に手を染めて転落。
だが、結句すべては「私」の思うまま「彼」が支配されていた......。

原作・脚本・音楽すべてを作りなしたステファン・ドルギノフは才人。2003年にニューヨークで初演され、2005年にはオフ・ブロードウェイの演目となった。次いで2007年の韓国上演が大成功。これを受けた日本初演は昨年9月の同劇場。演出は同じく栗山民也。

1時間45分にわたり歌い通しの舞台。
麻布十番のアトリエ・フォンテーヌは100人ほど収容の小劇場とて、ピアノ一台の伴奏(落合崇史=かなり難しい譜を後ろ向きのままよく弾きこなした)のみで見るには、濃厚これ以上ない演技空間である。

「私」の田代万里生、「彼」の新納慎也、どちらも特異な存在感を放つ歌役者とて、適役かと思われたが、戯曲の深いところを射抜いたかといえばまだまだ、不足の点が目立つ。
最も欠けているのは、追い、追われる、この2人の間に蟠る性愛の闇。
それがなければドラマが成り立たない。
キリスト教社会らしく、また法曹志望者らしく、2人は契約書を作成し「互いに求めるものを拒まない」関係を取り結ぶ。性愛はその根源である。

ほとんどが女性観客、密室的な空間、2人とも「上品な」ミュージカル系の俳優、ということもあってか、演技・演出ともにスタイリッシュ、悪く言えば綺麗事である。
たとえば、2人それぞれナイフで指を傷つけ契約書にサインを交わす場。
あれほど追い縋って「彼」を求める「私」だったら、切り裂いた「彼」の指を咄嗟に奪って舐め、恍惚とするくらいの行為はあっても良いだろう。
というのも、この直後に劇中を代表するナンバー「スリル・ミー Thrill Me」が歌われる。表題歌であるのみならず、"Thrill me"とは性愛のスラングである。
それなのに、2人ともインクで汚れた程度のつもりで指を拭うばかり。本来ならばひとつの「頂点」ともなるべき場面なのだ。
(ここで私の脳裏に思わず「お定のモリタート」が流れたが、この場に欠けているのはまさに包丁お定の情動である。)

最後、証拠品となったメガネは屍骸の傍に意図的に「落としておいたのだ」と明かし、懲役99年の刑期中「彼」をわがものとすることに成功した「私」の、泥沼の上澄みのような微笑。この「勝利の場」における田代も感情表現に欠ける点が多く、「私」のほうが一枚も二枚も上手だったと気づく「彼」の複雑をきわめる(はずの)演技は、新納だと棒立ちの感が深い。

好感の持てる熱演、歌も巧いのだが、2人とも演劇人としてはまだまだ、という感を抱いた。

田代と新納のやりやすいよう道を付けた栗山の演出も物足りない。
脚本の闇を掘り起こし2人の精神的媾合を描破するには至らず、「彼」が「私」を、「私」が「彼」を、それぞれなぜ必要としたのかという重く鬱した人間関係を呈示するにしては2人を対置することが多く、精神と肉身の血涙がぶつかり触れ合うを闘諍あえて避けたかのようだった。

2012年3月14日 | 記事URL

このページの先頭へ

©Murakami Tatau All Rights Reserved.