2012/3/3 能の復曲・新演出の問題点 | 好雪録

2012/3/3 能の復曲・新演出の問題点

大槻文藏氏のシテによる新演出〈戀重荷〉再演は先刻無事に演了。
全曲約65分。きわめて密度の高い舞台成果だったと思う。

今回の上演には、初演とはちょっと違った部分がある。
初演時の台本は、現行の観世流大成版をもとに観世元頼本の長所を取り入れた新本で、特にワキの部分に細かな入れ替えや変更が生じた。
前回の福王知登氏にはそれを律義に踏襲して頂いたのだが、これは実はたいへん困難な作業なのである。
まったくの新作を一から憶えるのはプロにとっては存外容易だが、既に記憶済みの詞章と細部が微妙に異なるものを別に憶えるのは、それとは比較できないほど厄介かつ至難。
今回のワキは重鎮・寶生閑氏。現行では中入後にワキの口から明かされる「重荷の正体」を元頼本どおり冒頭の名ノリに続けて述べてもらう肝要な操作の他は、本日は原則として下懸寶生流の現行本文に拠ってもらった。

能演出の再検討などで、学問的成果に基づき「良心的」改訂本文を作っても、現行曲として定着している演目の場合、一回の試演だけならばまだしも、続けて上演することが事実上不可能なのは、「正確に憶える」ことを徹底する能役者たちにとって、現行版とよく似た異本が両立し得ない点が原因。
これは、もっともなことだ。
私が小田幸子さんと作った前場復興の完型〈菊慈童〉は、前場・後場ともに古本に拠ったため、当座の成果は挙がったものの、このまま定着させることはちょっと無理。
前場は新規の創作だからそのままで良いとしても、後場は大成版のかたちで頻演されるのだから、新規の増補部分を大成版に単純接続すれば済むよう更に改良しないと、気軽に一般に演じてもらうことはできないだろう。

復曲・新演出は、上演を重ねないとこなれない。
私は、たとえ学問的ではあっても、一回きりでおしまいの試演にはさして興味がない。
現行曲に準ずるほど繰り返し上演してもらい、能のレパートリーを富ませて、復曲・新演出という行為そのものが演能活動の活性化に寄与しないと意味が薄いと考えている。

また、復曲や新演出の際には謡や型や囃子事に凝りがちだが、あまり凝り過ぎて特定の演者にしか再現不能となると、絶対に重演は無理である。
むしろ、素人にさえなぞれる程度の基本に徹しつつ、その都度、演者の工夫が加味できるような余裕がないといけない、と考える。

私は幸い、これまで何人もの能役者たちから委嘱を受け、さまざまな作業に携わってきたが、能の復曲・新演出に関する基本的な考えは以上のようなところである。
今後も時々の縁に従い、レパートリーに定着できる良質の仕事に携われれば幸いである。

2012年3月 3日 | 記事URL

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