2012/3/4 鹿島茂『怪帝ナポレオン三世』 | 好雪録

2012/3/4 鹿島茂『怪帝ナポレオン三世』

本日は大阪で片山九郎右衛門の〈鸚鵡小町〉初演を見に、トンボ返りのスケジュール。
新大阪駅に直行して新幹線に乗り込んだら、つい今まで〈鸚鵡〉の地頭を勤めておられた片山幽雪氏も乗っておられてびっくり。
歌舞伎俳優や能楽師の身仕舞の速さには一般人の想像を超えるものがあるが、なるほど改めて感心した次第。

往復の新幹線で表題の本を読了。
「第二帝政全史」と副題を据えた、現在では講談社学術文庫に入っている一書である。

私は昔から、ナポレオン3世(1808~1873年)という人物にいたく興味を持っている。

同時代のヴィルヘルム1世(1797~1888年)、ヴィクトリア女王(1819~1901年)、フランツ・ヨーゼフ1世(1830~1916年)といったヨーロッパ君主と並べるといかにも胡散臭く怪しげでいながら、全欧州随一の消費文化全盛の一時期を演出し、オスマンのパリ大改造を可能とした立役者として、文化史の中では常に見え隠れする存在なのだが、一般には毀誉褒貶の「毀・貶」の点でしか語られない人物である。
著者一流の、資料を博捜した記述は評伝としても実に膨大。事実、その膨大なエピソードと分析を伴わなくては到底語り切れない人物なので、「怪帝」とはよくも名づけたものである。

1870年に普仏戦争で捕虜となって帝政潰壊、翌年に英国亡命、1873年に亡くなったため、第二帝政は明治維新後の日本に直接の影響は与えられなかったけれども、何と言っても当時のヨーロッパはパリが文化の中心である。
この書には触れられないが、幕末1867年のパリ万博に国使格として渡欧した徳川昭武は手厚くもてなされている。明治になって編纂された旧幕時代の見聞録『舊事諮問録』には、この使節に加わった幕臣の回想談として、ナポレオン3世臨席の軍事演習を陪観の際、一兵士が落馬したと見るや、ウジェニー皇后自ら馬を馳せて救護に向かい、手ずから世話をした光景を見て瞠目する場面があったと思う。
家庭的に模範だったヴィクトリア女王夫妻に比べ、乱倫を極めたナポレオン3世は対極にある人物だが、このように君主の人格そのものが国家のありようを規定しかねないのが、常に国民の注視に曝される近代君主制の危険であり、人間臭い面白さでもあることを、徳川昭武はもちろん、第二帝政消滅の翌々年に渡仏した岩倉具視や伊藤博文は、嫌というほど知らされたことだろう。
徳川幕府とほとんど時を同じくして倒れたナポレオン3世は、いわば、近代日本の偉大な反面教師だったのだ。

本書の中では日本と第二帝政の関わりについては分析・言及されていない。それだけに、記述内容を熟読してゆくと、現代日本に向けた問題提起があちこちに潜在していることに気づかされる。
たとえば、1850年代の鉄道敷設ブームに乗って、その資金調達の基として設立された機構クレディ・モビリエが、のちに全ヨーロッパ的に企業展開し社債を発行することによって現在のユーロ圏に相似した経済革命を目論んでいたこと、それがロートシルト(ロスチェイルド)系の既存の発券銀行との闘争に敗れて消滅してゆく事情など、国家の枠を超えた経済の自律性はわが国においても既に他人事ではない。
そして、「口数の少ない独裁者」として君臨したナポレオン3世はこうした複雑な経済問題を含めたすべての社会的・政治的局面について知識を得、陰陽に亙り関わっていたことが、この書によって知れる。
ヴィクトル・ユゴーを代表とする反対者に押された「愚帝」の烙印は、必ずしも彼のすべてを語っていない。

ナポレオン3世とは、「一般大衆」の人気のみによって奉戴され、葬り去られた、典型的な「ポピリュリズムの傀儡」だった。そして、もっと驚くべきことは、ナポレオン3世自身がそれを熟知し、逆にそれこそ自らの存在意義だと確信していたことである。
その意味で、彼はちょっと世界史上に比較すべき例のない「独裁者」なのだ。
こうしたことが明らかになるのが、この書の大きな意義なのである。

大衆の人気というものに、特別な意味などない。
が、その威力とは、全てに勝る強大なものである。
自らの一生をただそれのみに賭け、捧げた君主は、彼のほかに近代史上まずいない。
ひょっとすると、ナポレオン3世的な「得体の知れない独裁者」を待ち望んでいないとも限らない現代の日本において、彼のことはあまりにも知られていない。

ブルーチーズやクサヤのような「魅力」のある人物。
それが、「怪帝」ナポレオン3世なのである。

2012年3月 4日 | 記事URL

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