2012/3/7 「襲名ぢゃ、襲名ぢゃ」? | 好雪録

2012/3/7 「襲名ぢゃ、襲名ぢゃ」?

本日は平成中村座昼の部を観劇。
六代目勘九郎襲名披露興行の第2ヶ月目である。

昼の部の披露狂言は〈大藏卿〉檜垣・奥殿。
阿呆ぶりまでキチンと父親写しに勉強している新勘九郎の折り目正しさは、称賛に値する。

その檜垣茶屋の場で、大藏卿の所望でお京が〈鶴亀〉を舞って見せる件。
取り次ぎの局・鳴瀬の言葉「主命ぢゃ、主命ぢゃ」を、大藏卿も繰り返す。
観客の多くはこのセリフを「襲名ぢゃ、襲名ぢゃ」と解したらしく、満場の(ほとんど好意的な)笑いが起こった。

むろん、これは当て込みなどではない。常のセリフである。

「主」を「しゅう」と読むことが既に耳遠い上、「シュウメイ」と耳で聞き「主命=主君の命令」と即座に通ずる人はもっと少なかろう。無理もないことではある。
だが、「襲名ぢゃ、襲名ぢゃ(=めでたい襲名披露だから舞ぐらい舞え)」と誤解されるとは、いかにも情けない。

これに限らず、現代社会では急速に、ほとんど年々と言って良いほど、日本語の語彙が減少し、ちょっとでも耳遠い言葉は聞き流して意に留めない傾向が加速している。
これは毎年、大学の教壇に立っている者としての実感である。

専門に研究しよう、深く興味を掘り下げようとする学生は格別、大多数の大学生はいわば「お素人」。彼ら彼女らに勤勉さを求めることなど、私はとうに諦めている。
とはいえ商売柄、聴講者には相応の知識は是非とも持って帰って頂きたい。
その訓練から私は大抵、「この言葉はこう言い換えれば分かってもらえるな」とか、「これは漢字で書けないな」という判断は瞬時に下せるし、その判断はまず過たない。
(こうした低次元のことを学生に確認する手段として文部科学省推奨「授業アンケート」なるものが、全国の大学で半ば義務化されているのです)
いわば、「ライブ」たる大学の講義(現代の学生はノートを採ることさえ教えないとできない)。その場で耳で聞いて瞬時に分かってもらえなかったら、それでおしまいである。

能・狂言や歌舞伎・文楽など、いくら古語が難しいと言っても安易に言い換えはできない。
加えて「これは分かるだろう」と思われた語さえ最早ダメ、という例が激増している。

その原因は複合的だが、一つには、想像力・類推力の欠如、ということがある。

土台、すべての語を覚えておくなどということは無理。私だって古語を総暗記しているわけではない。
が、日常的な読書であれば、古典文を読んで分からない語に当たっても、そのまま前後を往復し文脈から類推する。あとで辞書を引いても、外れていることは、まあ少ない。
ちなみに、古文書を読み下す際も同様である。
例えば和歌ならば、崩し字が一部判読不能でも、「流れからすればここはこうした言い回しになるはず」と思って読んで行くと、よほど道に外れた悪筆でない限り読める。
俗に、「読めない掛物は枕元に一晩掛けておけ」と言う。
繰り返し「こうもあろうか」と読み試みるうちに、糸がほぐれるように読みが上がるものだ。
だから、無縁なジャンルの文書は平易な崩し字でもお手上げ、ということがある。私は能の型付ならば「一晩置けば」まず平気だが、農政や経済の古文書は読めない。
江戸文学の学者は「板本に比べて肉筆は読みにくい」と言うものの、崩し方が理に適っていて用字に無理のない平安時代の和歌・物語のほうが、細事で埋まった江戸板本よりよほど読み易い。

いささか、論が逸れた。

歌舞伎や能を見馴れている、いや少なくとも「わがもの」として見ている人ならば、ちょっと難解な語でも想像力で補って解することができるだろう。
そうでない、いわば「エトランゼ」(←長く通用したこの語も既に賞味期限切れかもしれない。エトランゼ=外国人・部外者)として歌舞伎や能に接する人たちは、あくまで受身である。歌舞伎や能に自分から歩み寄ろうとすることはあまり期待できない。

現代では「発信力」なる語が喧伝される。
だが、それと反比例するかたちで、現代人の心の「受信力」はむしろ劣化しつつあるのではないだろうか。

私は常に学生たちに言う。
「言語表現と絵画は似ている。言葉は絵具と同じで、持っている数だけ色彩が豊かになる。墨一色ですべてを描き表わす技もあるが、それは達人の所業で、素人は真似られない」。
語彙の少ない人はそれだけ感情の起伏も単純、ということにならないか。
「襲名ぢゃ、襲名ぢゃ」でウケた背後に、甚だ心配な日本人の今後を私は思い浮かべる。

2012年3月 7日 | 記事URL

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