2012/4/13 健全な社会常識に基づいて的確に評価された判決 | 好雪録

2012/4/13 健全な社会常識に基づいて的確に評価された判決

最近もっとも俗耳をそばだてさせた下世話な話題と言えば、東京・千葉・埼玉での男性3人連続不審死事件の裁判についてだろう。

私はこれについて、言うべき言葉をまったく持ち合わせない。

たとえ被告人がどれほど強烈なキャラクターの持ち主であるにもせよ、状況証拠しか存在しない事件に判決を示すというのは法哲学に照らして至難のことであり、まして「お素人」の手に負えるようなものではない。
程度の差こそあれ、過去の冤罪事件の多くは「状況証拠の揃った怪しげな被告」に関して起こっているのである。

今回は裁判員裁判、すなわち「お素人」が群議をなして決を下したものである。
膠着した職場の会議で、ともかくも「落としどころ」を見つけなければ散会できない時には、なんとか理屈を付けてその場を収めるのと同じノリだ、とは言えまいか。

つまり、「みんな一生懸命に考えてはいる」、のだ。
その結果まとめられた意見が、「やっぱり休憩室は禁煙にしましょう」か、「やっぱりこの人は死刑にしましょう」か、その違いがあるだけの話である、と評することはできまいか。

さいたま地方検察庁次席検事の談話では「間接事実による検察官の主張・立証に対し、健全な社会常識に基づいて的確に評価された判決」と、これを評価している。
「間接事実」が「健全な社会常識」によって判断されることの恐ろしさに気付いている人は、果たしてどれだけいるのだろう。
※引用のNHKニュースには裁判員のコメントも付されて興味深い。そのうちの一言、「自分が持っているもの以上の力を出せたという達成感があります」。前後切り離された要約から判断する危険性を考慮しつつ、ここだけ読む限りにおいて、私はこの発言を極めて軽薄かつ不見識と思う。

1936年=昭和11年の「三大騒動」をご存じだろうか?

阿部定事件(5月18日)。
上野動物園黒豹脱走事件(7月25日)。
それと、2・26事件である。

現代人からすれば、お定さんや黒ヒョウを昭和天皇・北一輝・眞崎甚三郎・高橋是清などと並べることに異様な滑稽感を禁じ得ない。
が、当時も現代も、事件というものはマスコミ報道、つまり、第三者の「意図」によって選択された情報を介してしか、われわれは知ることがない。

このことは、憶えておいて良いことである。

★本裁判における検察側の発言として、産経新聞に恐ろしいことが載っていた。
窓の外には夜空が広がっている。夜が明けると、雪化粧になっていた。雪がいつ降ったかを見ていなくても、夜中に降ったと認定できる」「誰かがトラックで雪をばらまいた可能性もあるが、そんなことをする必要はない。健全な社会常識に照らして、合理的かどうかを判断してほしい」。
言うまでもなく、「トラックで雪をばらまく」程度のことをやすやすと「自然に」見せてしまうのが国家権力というものである。(2012年4月15日追記)

2012年4月13日 | 記事URL

このページの先頭へ

©Murakami Tatau All Rights Reserved.