2012/4/14 韓流デヴュー・ミュージカル〈コーヒープリンス1号店〉 | 好雪録

2012/4/14 韓流デヴュー・ミュージカル〈コーヒープリンス1号店〉

テレビドラマは見ないから、今年のNHK大河ドラマでどんな清盛や頼朝が跋扈しているか知らないのだが、ましてや数年前から話題の「韓流ドラマ」は満足に見たことがない。

時代物としての代表作らしい〈宮廷女官チャングムの誓い〉(原題〈대장금=大長今〉は「大成駒」の如き格調高い外題)。これなら折々抜粋を見たり、芝居になったポスターも知っている。私の印象では、昭和40年代にやっていた〈大奥の女たち〉のようなもの。
ああ、あれは三益愛子の春日局、桜町弘子のお萬の方、澤村貞子の老女重野そのほかクセモノたちがうち揃って、「そのころお萬の方さまは......」と勿体をつけたナレーションさえよく憶えている。懐胎のお手付きが台に上がり梢に短冊を結ぶ刹那、転落するのを目前、底意地悪い朋輩が薄ら笑っているベタな場面もあった......など、幼稚園から小学生時分の下らぬ回想は尽きることがないが、宮廷モノ・大奥モノは似たり寄ったり、何によらずインパクトが強く、ウケるのである。

さて今回、青山劇場で見てきたのはそんなドロドロしたものではない。爽やか青春恋愛モノ〈コーヒープリンス1号店〉である。もっとも、韓国輸入ドラマとして有名だと聞いたのはつい最近のことで、私はコの字もプの字も知らなかった。
翻案新作のミュージカルとて、あらすじはどこかで別途ご参照頂きたい。
男前の財閥の御曹司(崔漢結=최한결=チェ・ハンギョル)が、いわゆるイケメンの店員をうち揃え、冴えない喫茶店を再興するオハナシであって、その中には一人、少年に見まがうボーイッシュな娘(高恩贊=고은찬=コ・ウンチャン)が混じって、「彼女」と御曹司との屈曲した恋愛譚が展開される、と言えば、婦女子の方々を視聴者・観客に想定した、まあ「よくあるオハナシ」なのである。

ミュージカルだから音楽の魅力が大半を占める。舞台化された日本版新作は耳になじみ易い曲が揃って(音楽監督:玉麻尚一/作曲:佐橋俊彦)、中でもマッキーこと槇原敬之の手で主題歌が書き下ろされたのがウリだと聞いていたが、マッキーなるご仁にとんと縁がない私の耳にはどれがその曲ぢゃやら、ついに分からずじまいだったのは遺憾である。

主演・ハンギョルの山崎育三郎は実力派・泉見洋平の後を襲い〈レ・ミゼラブル〉マリウスや〈ダンス・オブ・ヴァンパイア〉アルフレートを持ち役とする成長株とて歌も芝居も立派。相手役・ウンチャンの高畑充希はピーターパンを持ち役としているだけにニンに嵌まった女優。加うるに、助演の尾藤イサオと中尾ミエが素敵に巧く、配役はなかなか優秀である。

ただ、私は芝居見なので、どうしても脚本に目が行く。今回は原作の縛りがあるため仕方ないのだが、日本と韓国と、国情も国民感情も大きく異なる中、役者たちの見た目ばかりはそう変わらない同じ東洋人の舞台だからこそ、違和感も随所にあるのは否めない。

王朝時代の科挙の制度が影響してか、韓国社会は徹底した成績主義・成果主義であり、血縁はなくとも同姓同本(貫)の婚姻は否とされた(法的に撤廃されたが風俗として消えてはいない)ほど素姓筋目に対する執着は強い。
つまり、現代日本には消えかけた保守性が根強く、学歴・財力・体格や美貌、そうした世俗の価値が絶対的に屹立するから、受験戦争は熾烈で美容整形の普及度も恐ろしく高い。

劇中、ウンチャンを男だと思い込んだハンギョルが「彼」に惚れ、自分が「ゲイ」かと悩む場面があるが(あえて語釈を説けばここは「ゲイ」ではなく「ホモ」と称すべきだ)、それが理由で医師の診察を乞おうするのは、日本ならば既に遠い過去の話ではなかろうか?
それも、徴兵制が布かれ、「家」の縛りが強固で、男には男性性が、女には女性性が過剰なまでに望まれる儒教的倫理観が根強い韓国ならではの人物心理なのである。
最後、女性の正体を明かしたウンチャンはバリスタ(コーヒー専門師)としてイタリア修業に出、2年後に帰国してハンギョルと結ばれる。
ここでは、大財閥の御曹司としてハンギョルの持つ徳分と、ウンチャンのバリスタとしての能力とが釣り合った、という体裁になっているわけだが、現実社会でこうした均衡はあり得まい(歴史的にカフェ文化の発達したイタリアと違い、韓国でバリスタと言っても一種の虚業であろう)。

これは、すべてが学歴・財力・美貌を具えてはいない観客・視聴者の婦女子の夢想に寄り添った虚構の結末であり、わが国においては、現実にはまず活かせないことにも気付かず「資格取得」に浮き身をやつす現代女性たちと等しい、地に足の着かない虚ろな人間像が潜んでいるとも読めるのである。

もちろん、こうした野暮は言いっこなし、が「大人の見方」。
ただ、少女マンガやテレビドラマの枠内では許容できる設定や筋書きが、舞台化されると一気に違って見えるということは一考に値しよう。
それだけ、生の舞台は、生身の役者は、口ほど以上にモノを言ってしまうのである。

昨年来思うところあって、「見聞予定」に記さない公演も含めて、多くのミュージカル作品を見るようにしているが、韓流モノは今回が初めての体験とはいえ、総体、演劇として「?」と思わされる出し物が相当に多い。
韓流ツナガリで思い出したのは、先月のこの欄でも紹介した、三浦春馬クン出演の〈海盗セブン〉である。
7人の怪盗の中に韓流スターという触れ込みで現われる青年があり、彼は実は在日朝鮮人だった。
なぜ「韓流」と偽ったのかとの問いに答え、彼は「ザイニチは日本にも韓国にも居場所がない。生きるためにはそう偽るしかなかった」と吐露するのだが、その激しい言葉を聞いて、主演・脚本・演出・主宰の岸谷五朗は「今の君が一番輝いている。ザイニチだろうが、そんなことは関係ない。『朝鮮』と『日本』で『朝日』じゃないか!!!」という趣旨のキメゼリフを吐き、さすがの私も目を丸くした。

まさか、在日韓国朝鮮人問題に敏感な朝日新聞に対する揶揄ないしはオマージュだとしたらこれまたオソロシイものがあるが、そもそも国号「日本」と並べて「朝鮮」を併称してしまうことも含めて、たとえサンライズの勢いを愛でたセリフにせよ、こんな蕪雑なことを舞台上で平然と口にできる神経を私はとうてい理解できないのである。

2012年4月14日 | 記事URL

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