2012/4/22 Dance to the Future 2012 | 好雪録

2012/4/22 Dance to the Future 2012

新国立劇場で"Dance to the Future 2012"と題するコンテンポラリーダンスの3部構成公演。評価の高い振付家・平山素子の作品集で、ふだんはクラッシックバレエを踊る新国立劇場バレエ団ダンサーたちがコンテンポラリーダンスを見せるのがミソである。

今回は新作〈Ag+G〉を冒頭に、デュオ〈Butterfly〉(2005年初演)、ストラヴィンスキーの音楽による〈兵士の物語〉(2011年初演)の3本立てだった。

〈Ag+G〉は湯川麻美子・寺田亜沙子・益田裕子・奥田花純・早乙女遥・ 福田圭吾・貝川鐵夫・古川和則・原健太・八木進による集団作品。〈Butterfly〉はこの日は丸尾孝子・宝満直也による若手コンビ。〈兵士の物語〉は八幡顕光の兵士、厚地康雄のプリンセス、大和雅美・小口邦明・清水裕三郎の道化、山本隆之の悪魔。こうしたキャスティングである。

概観したところ、圧倒的にウケたのは〈Butterfly〉である。前後二つ、私は正直言って随所に睡魔を催した。
とはいうものの、これは出来不出来の問題ではない、と思う。
要は「クラッシックバレエとコンテンポラリーダンスの違いとはどこにあるか」という、ちょっと看過できない問題に根ざしているのではないか。

クラッシックバレエの舞踊技法は、完全に体系化されている。
脚部だけでも1番から5番に分かたれたポジションから始まって、身体の位置は厳しく規定され、その上で、跳躍や回転の技法もまた類別されている。そして、それぞれに「こうでなくてはならない」という身体的規範が厳格に定められている。
能や日本舞踊にもこうした身体技の類別は存在するが、若手の稽古の段階は別としても、演者が大成するに従って技法そのものも個人的に内在化され、その人次第に変質するのが許容される事例は多い。例えば、若手のようにキッパリとシカケ・ヒラキができず、腕は震え背は丸く動きが内輪になっても、友枝喜久夫が名手の名を落とさなかったようなことは、クラッシックバレエではまずあり得ない(はずである)。

同劇場バレエ団の頂点に立つ山本隆之の参加で知れるとおり、〈Ag+G〉と〈兵士の物語〉はクラッシックバレエの技法をまず完全に体得した熟練者たちで踊られた。全体として見ても、普段〈ジゼル〉や〈白鳥の湖〉を見せる時と変わらぬ安定があるが、そのぶん既視感も強く、ことに〈兵士の物語〉では古典的なマイムの要素が各人に露呈して、平山振付の本来的意図であろう解体された身体の自在さを十全に感ずるには至らなかった。
これは無理からぬことで、日ごろから鍛えに鍛えた技法を捨てて掛かれと言うほうが殺生、近藤乾之助や塩津哲生に「能を忘れて藤間流の舞踊を稽古しましょう」と言ったって絶対にできないのと等しいだろう。

今回、開場時から新国立劇場バレエに参加している丸尾孝子は措いて、大抜擢とも言える宝満直也は2008年4月から2010年3月に至る同劇場第5期研修生出身者。まだクラッシックバレエの技法は十全でなく、何より、クラッシックバレエに必須のステージナマーに染まったノーブルな身体はとうてい獲得できていない。
だが宝満は、「踊りたい」という内的衝動が人一倍強く感じられる舞踊手だ。そこが現監督・ビントレーの目に留まったものだろう(伝え聞くところによると、ビントレーは着任時、わが国クラッシックバレエのプロダンサーのレベルの低さに愕然としたと言うが、それは技法方面より精神・意識の面に多くを感じたのではないかと思う)。
跳躍と横臥を果てしなく反復する〈Butterfly〉の振付は舞踊手に極限を強いるもの。最後は常識とは逆に、女性舞踊手の胴に男性舞踊手が取り付き身体を平らにしてかなりの時間そのまま保つアクロバティックかつ尖鋭的な振りを試み(若い宝満もさすがにそのうち頭と足とが垂れてきた)、やがて宝満が定めの間でバタリと地に落ちて終わる。この作品に籠められた性愛の隠喩を表わすには未熟な二人だったとはいえ、ことに宝満の踊りの生々しい激しさは、前後2作品に出演した先輩たちの安定した舞踊にはまったく見られなかったものである。生々しい人間性と荒々しい動きが作品の一焦点を衝き、満場の喝采を得たのはむべなることだ。

ただし、これはあくまで、(クラッシックバレエの視点で評すれば)宝満直也の未熟さが生んだ熱演の成果でもあるのだ。〈Butterfly〉演了後の休憩時間、クラッシックバレエを専門に評する知人にたまたま逢って感想を聞いたところ、「平山自身が踊った2005年の初演時に比べて、オペラと流行歌ほどの違いだ」と酷評していた。なるほど、そうした評は成り立つのである。

とは言うものの、今回の平山が、あえて「オペラ」ではなく「流行歌」を狙って作ったものだとしたら、どうか?
また、「オペラ歌手」が「流行歌」を歌う是非については、どうなのか?
さらに、「オペラ歌手」を目指している若者が修業半ばに「流行歌」に適性を見出した場合、その将来はどうなるのか?
そもそも、「オペラと流行歌の違い」とは、何なのか?

私は実は、舞台の出来・不出来よりも、こうしたことにはなはだ興味がある。
むろんこれらは、現代の能・狂言や歌舞伎にも直結する問題なのである。

2012年4月22日 | 記事URL

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