2012/4/28 平成の「薄葬令」 | 好雪録

2012/4/28 平成の「薄葬令」

海外渡航の前はなるたけ静かにしているもの。
よって本日は何もせず、「終日御静養」である。

表題は、本日報道された心を打つニュース
「天皇、皇后両陛下のご意向に沿い、土葬が慣例化していた天皇、皇后の埋葬方法を宮内庁が変更し、社会で一般化している火葬を検討することになった」(以上、皇室報道に遺漏のない産経新聞より引用)

702年に崩御した持統天皇以来、明治天皇の父・孝明天皇まで、天皇の御遺骸は火葬にし奉るのが皇室の「伝統」だった。
こう言うと、「え?『江戸初期の後光明天皇以降は土葬』と、報道にはあるじゃないの?」とお考えの向きもあろう。
だが、先年亡くなった飛鳥井雅道の労作『明治大帝』を繙くと、こうある。

「平安期から、天皇はすべて仏式で葬られていたのであり、ずっと長く火葬が続いていた。江戸時代のはじめ、後光明天皇の死の1654(承応3)年から、火葬のたてまえをとりつつ実際には土葬に復していたが、あくまで土葬は『御密行』と称され、非公式のままだった。菩提寺は京東山の泉涌寺ときまっており、導師も泉涌寺の長老がつとめる習慣だった」(ちくま学芸文庫版P.43。同書P.119にも類似記事あり)

つまり、泉涌寺へ棺を運び火葬に付した形式を公的に装ったうえ、実際は密かに土葬する、まことに複雑な手順を踏んだのである。
理由は何か。
それは、火葬という持統天皇以来の「伝統」を守るためであろう。

註:後光明天皇葬送時の土葬復興については、明治元年(1868年)より昭和2年(1927年)6月までの間に贈位された2,168人の略伝を収める『贈位諸賢伝』(田尻佐編・1927年7月刊)によって理解されることが多い。同書には原拠を確認できない逸話も収められているが、土葬復興に寄与した「奥八兵衛」の略伝は、吉川弘文館『国史大辞典』に以下のとおり紹介されている。
「江戸時代前期の京都の魚商人。河内屋と称す。宮中に魚を納入することを業としていたが、後光明天皇がつねづね火葬を不仁のこととして嘆かれていることを伝聞していたので、承応3年(1654年)9月、天皇が崩御になると、仙洞をはじめ公卿有司の間を説き歩いて土葬に改められるよう懇願した。その熱誠が容れられて、爾後天皇を火葬に付する例が廃止せられることとなった。寛文9年(1699年)正月23日没。明治維新後、その忠誠を賞して士族に列せられ、また正五位を追贈された。」
近代以前の天皇と京の町衆との関係は、粽で名高い川端道喜の例を挙げるまでもなく、実に深く、濃やかだった。道喜は「餅屋」であり、河内屋八兵衛は「魚屋」である。「食」という、日々欠かせないきわめて人間的な営為を通じ、天皇と庶民とが直接つながっていたことは注目に値しよう。なお、飛鳥井が紹介した「表面は御火葬、御内実は御埋葬」というダブル・スタンダードについて、飛鳥井は史料「山陵奉行上申書」を挙げている。ちなみに孝明天皇の葬送(1866年12月25日崩御・翌年1月27日葬儀)は、山陵奉行を長年勤め、天皇陵の治定(および創出)と修築に多大な功績を挙げて高徳藩1万石の領主となっていた「復古」派・戸田大和守忠至(1809~1883年)の進言により、従来の仏式主体に、はじめて神式要素が加味された、という。

ことほどさように、「伝統」とは流動的・相対的なものだ。
原理主義者が振りかざす「伝統」に、ロクなものはない。

古来の神道に定まった葬送儀礼が存在しなかったことはよく知られていよう。明治天皇の大喪儀に伴い新たに創出された神式の天皇葬送儀礼は、昭和天皇の崩御に至って形は変えたけれども、わずか100年の「伝統」しか有していないのだ。

今年はあたかも、1912年に崩御された「明治大帝」の100年祭である。
報道された両陛下の「ご意向」の背後には、賢明なるお2人の、こうした深い思惟までもが隠されているように、私は読み取っている。

2012年4月28日 | 記事URL

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