2012/4/3 DANCE ACT〈ニジンスキー〉 | 好雪録

2012/4/3 DANCE ACT〈ニジンスキー〉

午後から折々すさまじい春嵐。
私は早朝の降らないうちに家を出、勤務先は駅と直結だし、天王洲銀河劇場もまた駅から歩廊伝いに行けるので、ついに傘も持たず雨にも濡れず、芝居が跳ねたら風はまだ強いものの空には月が出ていた。

そんな嵐の夜に見た〈ニジンスキー〉は、"DANCE ACT"と銘打つだけに、タイトルロール・東山義久のダンスと肉体美が過半を担っていて、台本はそのイマジネーションを喚起する補助線のようなもの。
ならばいっそ、〈Nijinsky:東山義久ダンス・オン・ステージ〉として構成し、上演時間も半分にしたほうが効果的だったかもしれない(今回は幕間15分を挟んで全部で2時間半)。

終演後のアフタートーク(私はこれが嫌い)で本人も言っていたが、東山本人はクラッシックバレエは踊れないので、薔薇の精にしても牧神にしても、写真に残る「ニジンスキー振り」を採り入れつつ、東山の魅力を最大限に発揮する動きに再構成しているので、それはそれで立派な見ものである。
だが、そこに「ニジンスキー」というきわめて個性的な人間が屹立するには、台本があまりにも散漫、良く言えば詩的言語に拠っている。
狂気の深みに心身を浸しゆく天才が書き残した『ニジンスキーの手記』中の言葉を連ね、東山ニジンスキーは最後に「僕は神だ!」と叫ぶに至るのだが、第1幕でダンスに比重があってセリフの少ない、心中の思念を充分に舞台言語化できていない彼が、第2幕で自ら神と称する豹変までを許容できるか。
そうした跳躍を許す許さないが、最後の場の東山の「神のダンス」ひとつに懸かっているわけである。

ダンスは身体言語であるから、当然「ことば」の代替たり得る。
しかし、それが踊り手自身の口から発せられると、いくら優れたダンスでも単なる説明に堕してしまうことがある。

ダンスにおける身体言語の「言語性」は、むしろ観客の側にある。

言葉を超え、言葉を拒むのがダンスであるにも関わらず、ダンスを見る、楽しむには、観客のほうでそれを心に定位するに充分な言葉を持ち合わせていなければならない。
この矛盾の中に、ダンスを見ることの面白さ、むつかしさ、胡散臭さがあるのだ。
(「舞踊評論家」が往々にして漂わせる怪しさはここに胚胎する。「能評家」もそうだろう。)

ここは東山ニジンスキーにも「僕は神だ!」と叫ばず、身体のみでそれを示して欲しかったところ。まあ、なにしろ"DANCE ACT"であるから、ダンスありセリフあり演技あり、そうした混淆は織り込み済みなものか。

だが、そもそも"DANCE ACT"って、何だろう?

狂言廻しと言うにはあまりに偉大、それこそ、ペトルーシュカたるニジンスキーを操り続けた真の意味での創造の神・ディアギレフに扮したのは怪優・岡幸二郎。
彼の本領は歌だから踊らないけれども、第2幕冒頭ではリムスキー=コルサコフのオペラ〈サトコ〉第4場「ヴァイキングの歌」(←この録音を残した大バス歌手・シャリアピンは1907年5月にディアギレフのプロデュースでパリ・オペラ座の舞台を踏み成功を収めた。ちなみに、ディアギレフはリムスキー=コルサコフに作曲を師事してもいたのだ)を歌う。
ほかにも良い聞かせどころがあり、所作もエレガントで芝居も抜群。岡ならではの怪演は傑出している。

2012年4月 3日 | 記事URL

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