2012/5/10 永竹由幸氏逝去 | 好雪録

2012/5/10 永竹由幸氏逝去

オペラ研究家の永竹由幸氏が昨日逝去されたとのこと。
大変驚いた。実に惜しいことである。

私がオペラを聴き始めたのは中学2年生の時で、1978年3月に上演された藤原歌劇団の〈愛の妙薬〉を自分で切符を買って東京文化会館の5階席に座ったのが初め。同歌劇団による翌年のマスカーニ〈友人フリッツ〉は高校入試を終えたその足で聴きに行った。
まだまだバブルの前でオペラがさほど市民権を得ていない頃。周囲にクラッシック好きの友人は沢山いたが、オペラが好きだという者は一人もなかった。

CD普及以前のLP時代、オペラ組物1セットを買うのは中学・高校生にとってオオゴトであり、図書館で借り出して聴くほか、小遣いのほぼすべてをレコード購入に充てる前提に、どの演奏のどの曲をと、周到に周到な思案を重ねて集めたものである。
マリア・カラスが死んだ翌年にオペラファンとなった私は、今でもそうだが、イタリアオペラをことさら愛している。海賊版として非公式に流布していたカラスの実況録音盤がイタリアのチェトラ社から公式に発売され、それが日本でキングレコードから出された時、解説の筆を執っておられたのが永竹さんだった。
カラスの藝の聴き取り方を、イタリアオペラの聴き取り方を、仔細に私に教えてくれたのは、その永竹さんの文章だった。
音符ひとつ言葉ひとつに分け入って、演劇的表現と音楽的表現とそれを支える様式観とを克明に明らかにしてゆく筆致は、それまでの誰にも見られないものである。

とうぜん、音楽批評の泰斗と言えば吉田秀和。当時もその存在感は抜群だった。能の批評を書いていて参考になる能評家は過去にさしていないけれども、扱うジャンルの違う氏の批評は常に私に一定の「何か」を与えてくれる。

その吉田氏は、実は、イタリアオペラがあまり好きではない。
1954年4月のミラノ・スカラ座で、カラスは生涯にただ一度だけ王妃エリザベッタを歌った。このカラスの〈ドン・カルロ〉を実際に聴いた、恐らくただ1人の日本人であるにもかかわらず、吉田氏は実に冷淡で、特段の感慨を漏らしていないのだ(『音楽紀行』)。
吉田秀和の価値観は、明治以来のドイツ=ゲルマン偏重、イタリア=ラテン軽視の音楽文化観の上に立っていよう。これはこれで根の深い、ある意味で避け難い必然だった。またそれは、わが国におけるイタリアオペラを取り巻く言説や状況の反映でもあった。

劇場で体験できない日本人にとって、オペラは長らくレコードで親しむものだった。戦前の「ビクターの赤盤」に象徴されるとおり、日本のレコード産業は戦後まで英米資本と深い関係にあった。英米資本によって録音される曲目や歌手は、英米で人気の高い演目であり英米で名をなしたオペラ歌手である。名歌手の代表・カルーソはイタリア人だがその全盛期はニューヨークのメトロポリタン歌劇場をメインステージとして歌っていたので故郷・ナポリにはまるで死にに帰ったようなものだし、同時期のファーラーは蝶々夫人で名をなしたメトの名花だがイタリアではまったく活躍しなかった。
つまり、レコードのイタリアオペラはイギリスやアメリカの市場論理で選択された情報に基づくもので、イタリアの伝統的藝術観を直接反映はしていなかったのだ(イタリア本土でも英米とは異なる独自の録音はなされていたものの、そんな音盤など日本にはほとんど輸入されなかった)。
録音だけではない。イタリアオペラの曲目や演奏法に関する著述も英米の音楽学者や評論家のものが多く、日本におけるイタリアオペラの価値観そのものが親英米的だった。たとえば、「ベルカントとはいかなる声か」という抜き差しならない様式観・価値観が、伝統的なイタリアのオペラ界には存在する。イギリスやアメリカのオペラ界(ましてや日本のオペラ界)に、そこまで確固たるものはない。レコード産業を通じて名を成したジョーン・サザランドやエディタ・グルベローヴァは、イタリアでは「正統なベルカントの歌い手」とは、まず見なされていない。

吉田秀和が代表する、ゲルマン的音楽文化観。
レコード文化に内在する英米的な音楽文化観。
こうした既存の権威に対して、イタリア本国に留学し、歌劇場に通って深く広く見聞を重ね、イタリアのオペラ関係者と緊密な関係を結び、ついに夫人すらイタリア女性を娶った永竹氏のイタリアオペラに寄せる愛と造詣は、日本人としておそらく前代未聞の深さだったと思う。

14歳の時から48歳の今に至るまで、私は永竹氏の書くものにどれだけ啓発され、首肯させられたか分からない。
本当に惜しいことであるとしみじみ思う。

2012年5月10日 | 記事URL

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