2012/5/15 佐藤健×石原さとみ〈ロミオ&ジュリエット〉 | 好雪録

2012/5/15 佐藤健×石原さとみ〈ロミオ&ジュリエット〉

今宵は赤坂ACTシアターで話題の〈ロミオ&ジュリエット〉を観劇。
見る前はナメきっていた舞台初出演の佐藤健のロミオが、実は大変にすばらしい。

今回の佐藤初主演に先立ち、HPでは「本場イギリスで修業」と謳っているが、板の上の稼ぎが本来そんな短期の安直な「修業」でモノになるはずはない。従って実際には、彼の持つ表現者としての素地と地力とが問われることになるのだが、まず、彼はなかなか良いノドを持っている。ちょっと甘さのある、それでいて生地の手触りを感じさせる声音は、舞台俳優としてなかなかの強みだ。
ノドといっても、むろんそれはテレビからも窺えはする。今回はあれだけ広い小屋でマイクで拾うため腹から出た声でないのは仕方がないが、それでも、たとえば小音で言うセリフにも、佐藤の発するコトバにはコトバの実体が具わって聴こえるのは偉い。舞台経験では佐藤に勝るはずの石原のジュリエットが、コトバが団子になって何が何やらワカラナイ口跡で遜色はなはだしいのと比べれば、佐藤には明白に徳分がある。

佐藤と親しい三浦春馬の、先日も感想を述べた「子役上がり」特有の既視感とは違って、ダンスで鍛えた佐藤の演技は心身ともにしなやかで、まるで心の顫動が肉体の顫動に共鳴しているかのようだ。下品なセリフを連発する仲間たち(〈ウエストサイド~〉に倣う第1幕の趣向はいい加減やめたほうが良い)の中にあっても独り孤影を負い、そこはかとない品がある。これらすべて、彼の持ち味・人間性というものだろう。

もちろん、味や雰囲気ばかりで舞台俳優は永くは勤まらない。が、ロミオという青春の権化は藝や腕前で見せるべき役でもない。若き日の僅かの間に花開く「時分の花」で魅せる役、ニンとテンションとで持たせる役がロミオであって、佐藤は舞台人としても素質のある大きさとともにそれらを具えている。
セリフも筋立ても一応は原作に則っているからともかくもシェイクスピア劇の王道ではあり、タケル君、良い演目で初舞台を踏んだものである。

それにしても、ロレンス神父を演じた橋本さとしのような舞台で叩き上げた技術と手腕を持つ役者と違い、タレントやテレビ役者から板に上がった役者は、まず声の魅力とセリフの技量に欠けることで愕然たる差が出る。
パリスの姜暢雄はテレビでは人気者で背も高く、最期も立派にロミオの手に掛かるけれども、質量ともコトバがまったく客席に届かないし、舞台人としてのオーラも皆無。佐藤を除く若手の中では唯一、ティボルトの賀来賢人に「荒ぶる魂」と男の色気があって、これは出色だった。

演出のジョナサン・マンビィがどこまで細かな指示を出したのかは分からない。
というのも、松岡和子の翻訳に基づきながら、「上演台本」として気鋭の演出家・青木豪がクレジットされていて、その立場上ある程度は俳優たちの役づくりに影響を与えただろう、と思われたからだ。
松尾訳の筋の徹った(それゆえある程度改まった)日本語に、現代の若者スラングやクスグリで飾ったのが上演台本だが、これにはちょっと違和感がある。肝腎のドラマ性に「外付け」するかたちで、観客の大多数を占める若年層への媚とも思われる不要な修辞と演技も多い。先述の〈ウエストサイド~〉模倣はその顕著な例。
ヴィーンで見たコンヴィチュニーの〈ドン・カルロス〉のように、劇や劇場全体を相対化する知的手法ならばまだしも、単に場を盛り上げる効果しかない文飾に私はあまり意味を見出ださない。

だが、そもそも、作り手も観客も、本当に「ドラマ」のみ見ようとしてはいないのではなかろうか?

つくづく思われるのは、いくら佐藤健が良いとしても、全体としては本来あるべきこの戯曲の感動の焦点がぼかされ、調子の低い「子供の芝居」になっている、ということだ。
若い男女が激情の果てに次々と死んでゆき、残された大人たちがその虚無に感じて和解する。すべては全能なる神のなせる業、という世界観が屹立してこそ〈ロミオとジュリエット〉だろう。
奇抜な俗語を吐き、大げさな演技で滑稽を売ることで役者たちが自らの役を戯画化し、観客もまた積極的に「笑い」の要素に過剰反応するようでは、そうした世界観は立ち上がるはずはない。
フランコ・ゼフィレッリ監督の映画〈ロミオとジュリエット〉で、当時17歳のオリビア・ハッセー演ずるジュリエットは、何と丈高く見えるジュリエットであることか。
ティボルトを殺したロミオを思わず呪う、怒りに燃えたまなざしと発する言葉のちから。返す刀で、それでも変わらずにロミオを熱愛する思いを吐き出す真情。これら相反する感情のはざまで、揺るぎない一つの人格を演じ出す強靱な演技。画面で見ても、もはや「子供」のものではない。

役者個人から発して役者個人に回帰する演技など、私は見たくない。
役者個人から発し、手の届かない目に見えない「何か」に達しようとする営為なくして、〈ロミオ&ジュリエット〉という芝居など何の意味もあるまい。

最後に下らない話題で失礼するのは2幕目冒頭の寝台の場。
タケル君、俗に言う「パンイチ」。見るからにショボい黒トランクスひとつの姿である。
だが、下宿の大学生が湯屋の板の間でフルーツ牛乳を飲もうという場面じゃなし、演劇史上に輝く後朝(きぬぎぬ)の別れがこれでは、男としてあまりに色気がない。
先述のゼフィレッリ版では、亡き淀川長治先生絶賛の名場面。タケル君にもここは一番、男気をフンパツしてもらいたかったところだ。

2012年5月15日 | 記事URL

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