2012/5/24 国立能楽堂・老体で見る〈高砂〉試演 | 好雪録

2012/5/24 国立能楽堂・老体で見る〈高砂〉試演

天野文雄氏・梅若玄祥氏・福王茂十郎氏の監修、梅若玄祥氏のシテで表題の公演。
趣向は趣向として、疑問が多く残った。
ただし、試みそのものには大賛成。
こうした研究公演はむしろ積極的になされるべき、という立場に立っての「疑問」である。

会の冒頭、馬場あき子さんと天野氏の対談は聞けなかったが、「民俗的に住吉明神は老神」ということと、「能〈高砂〉の後シテが老体」ということは、素直にイコールにはならない。
能の作意は詞章を熟読することによって、戯曲解釈の可能性は演出史を解明することによって、それぞれ明らかになるだろう。

後シテの出に引かれる二首の和歌「われ見ても久しくなりぬ住吉の岸の姫松幾代經ぬらむ」「むつましと君は白浪みづかきの久しき世より祝ひそめてき」。前者は『古今和歌集』 巻17・ 雑歌上に読み人知らずの詠として名高い。二首揃って『伊勢物語』第117段の物語に組み込まれ、前者は御製(または在原業平を思わせる随行の臣下が天皇に代わって詠んだ作)、後者は住吉の神詠となる。これらは「老い」をめぐる立場で詠まれた歌だ。観阿弥ゆかりの「住吉の遷宮の能」が醜怪な老神憑依の能だったことも思い合わされる。
ゆえに、〈高砂〉後シテが老体として書かれた蓋然性は、確かに高い。

その際に考慮すべきは演出史なのだが、プログラムの天野氏の文章にもあるとおり、老体としての確実な〈高砂〉演出の遺例は上演史上まず見られないのである。
現行観世流の常の型のように若き神として演ずる方法が発生しても老体が主流のまま、結局は老若両様の演出が並存した戦国期以来の〈難波〉後シテに比べると、非老体で貫かれた〈高砂〉後シテの演出史は明らかに相違する。これは、詞章の上からも神格の点からもやはり老体としたほうが理には適う〈弓八幡〉が、〈高砂〉同様に若い男神としてのみ演じ続けられたこと~観世流の小書「初卯之舞」についてここでは論じないことにする~と表裏一体のことだろう。
(ちなみに、老体の〈高砂〉演出の痕跡かと天野氏が考える『童舞抄』は、私はあまり正統な伝書と考えたくない)

世阿弥執筆時の作意は作意として、たとえば、老神ではない「新しいタイプの住吉明神像」が上演史の中で創始され、その「老いていない神体」に、「老神が詠んだ著名な神詠をあえて口にさせる」趣向で現在に伝わっているとしたら、それはより斬新な趣向である。つまり、室町末期から現在まで若き男神としての演出のみが定着している深意を考えることのほうが、民俗的にはステロタイプな老体の住吉明神に〈高砂〉を先祖返りさせることより、よほど意味が深いのではないだろうか?

というのも、この日の舞台は趣味的な印象が勝り、全体に作り込みが足らないお手軽感が否めなかったからである。根本から立て直し、締め直した舞台成果とは思われず、「いつもの〈高砂〉を、ちょっと目先の変わった趣向で」という程度では、学術的遊戯と評される危険性は大いにあるだろう。

国立能楽堂の最近の活動として、ちょっと注意したい傾向である。

2012年5月24日 | 記事URL

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