2012/5/26 地謡の響きの汚さ | 好雪録

2012/5/26 地謡の響きの汚さ

本日は片山九郎右衛門後援会能を見て京都日帰り。

幽雪の〈楊貴妃 平調返〉は水浅黄の舞衣に錆びた桃色の大口という珍しい装束が素敵に美しく、身体的にはギリギリの線だったとはいえ、前夜の三川泉〈井筒〉に通ずる「抜き差しならない舞台」の手応えがあり感動的。九郎右衛門父子が手に手を携えて仇を討つ健気な〈望月 古式〉も快演で、実に気持ちの良い会だった。

こうした舞台成果とはまた別に、表題の問題、である。

最近、ことに40代前後の役者たちが中心となる能の地謡の響き、ことに開口が、汚く粗いことが耳につく。
これは、一般的に好意をもって「熱演」と見なされる舞台にかえって多いと思う。
先日の河村晴道主催「二星の会」でも顕著に思ったことである。

コトバや音をハッキリと、強い意気込みをもって謡いなすことが悪いはずはない。
問題は、その意気込みが空回りし、表現のための表現となりかねない点にある。

似た問題は晩年の先代銕之亟が地頭に据えられた地謡に既にしばしば聴かれ、私も昔から指摘はしてきた。
彼の謡は熱を帯びるに従い次第にピッチが高くなり、許容範囲を超えて吊り上がる傾向が顕著で、「ついて来られない奴は置き去り」と言わぬばかりに独吟化する傾向すらあった。
亡き粟谷菊生の地頭にも行き方は違うが似たような弊害があり、ともかく胴間声で埋め尽くされ〈江口〉も〈伯母捨〉もない、ということがあった。

「謡の老名手」として喧伝された世評が、必ずしも正しいとは限らないのだ。

私の耳にある規範は、まだ能を見始めた頃の銕仙会の地謡である。
冠誠一郎とか今井信善とか、華雪・雅雪時代以来地謡のみに出演する老人たちが前列に入っていても、後列には当時40代の山本順之や浅見眞州が座り、先代銕之亟の元気盛り気力体力ともに完璧な舞台を支えていた。
その、無機的といったら一面に過ぎないが、過剰な表情に走ることなく、声の密度の高さに賭けた甘みのない勁い謡。
これは、観世寿夫の〈井筒〉の映像に聴く、静夫時代の先代銕之亟率いる地謡と同じ内実だった。
地謡の響きの「汚さ」ということは、こうした舞台ではついぞ感じたことがない。

本日の舞台では、随所に「汚さ」が耳についた。
たとえば、九郎右衛門が地頭を取った、観世喜正の仕舞〈玉ノ段〉の最後「玉は知らず」の「タマワ」の「ワ」の音が口をゆがめて不必要に強く耳立った時、私は一瞬ビクッとさせられ実に不愉快な感覚が去らなかった。
一字一音と軽んずるなかれ。
表現上これは至極、大切なことであり、また、鑑賞の要諦でもある。

熱演というものは、自我の発露と表裏一体である。
自我の発露は「離見」と相反する宿命にある。

能の表現には徹底した「離見」こそ肝腎。これを離れて舞台はあり得ない。
思いに任せた熱演に入興することは、演者にとっても観客にとっても、実ははなはだ容易なのである。

40代の能役者たちに、是非、一考して貰いたい。
観世寿夫の〈井筒〉の映像に聴く地謡のありようこそ、手本とすべき響きである。
またそれは、再現できない過去の響きでは決してない。

「地謡の響きの汚さ」と「離見の喪失」の関係性は、一考されるべき大きな問題だと思う。

2012年5月26日 | 記事URL

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