2012/5/25 残照の紅・三川泉の〈井筒〉 | 好雪録

2012/5/25 残照の紅・三川泉の〈井筒〉

20世紀最大のピアノの巨匠ウラディミール・ホロヴィッツが1983年に初めて来日し、6月12日・日曜日の雨の夜に東京・NHKホールで、30年後のこんにち考えてさえ法外極まりないチケット最高価格5万円の演奏会を催したことは良く知られている。
この日、テレビで生中継があり、私もこれを聴いて、当日の感想が詳しく書き留めてある。

番組はベートーヴェンの28番のソナタ、シューマンの謝肉祭、などなど。
確かに、誰にも真似のできないホロヴィッツ特有の極美音ではあるものの、ショパンの英雄ポロネーズなどを代表に、当時79歳の高齢とはいえ(後日あきらかにされた「薬禍」を考慮するにしても)実にタッチの乱れた、老衰の演奏だった。

この時、会場でインタヴューを受けた吉田秀和氏が、歴史に残る有名なコメントを残した。
私の日記によると、こうである。
「ホロヴィッツは今や骨董品で、好きな人はどんなことをしても喜んで聴くが、必要のない人にとっては何の重要さもない。ただ、今となっては、骨董品としてもちょっとヒビの入った気(け)がある」

さきほど、上野の石橋メモリアルホールで三川泉の〈井筒〉を見て、このことをしきりに思い出した。

前場は本当にすばらしいものだった。
下居姿の艶麗さは格別で、これほど節木増の似合う能役者はいないと思った。今まで何度も見た彼の〈井筒〉前シテで今回が最高ではないか。少なくとも、正月の〈羽衣 盤渉〉より数等すぐれた出来ばえで、美の中から過去がせり上がってくるような、イメージ豊かな藝のすがたがそこにあった。
それに引き換え、後シテの出で錯誤と絶句。ここで能の流れが完全に断ち切られた。
三川泉、満90歳。老齢ゆえに仕方ない、とは言える。
ワキの宝生閑だって満78歳。本日は珍しく間違えて、前場の下歌が〈野宮〉や〈芭蕉〉になりかけたほどだ。

初めて能を見た人は、どのような感を抱くだろう。
いくら取るところがあったにもせよ、やはり、本日の〈井筒〉全体を三川泉の「傑作」とするには、ちょっと無理が過ぎるのではないか。それは、三川に対して、藝に対して、誠実さを欠く詭弁であり強弁であろう。

だが、私は、それでも本日の〈井筒〉を捨てきれない。
これを「名演」と無条件に持ち上げる者を信用できないのと同時に、これを簡単に「失敗作」と否定し去る者にもやはり信用が置けないのである。

「骨董品」にもいろいろある。
ヒビが入ったら即、無価値になるものもあるし、ヒビが入ろうがちょっとは欠けようがさして構わないものもある。
彩色や金箔が剥げ落ちた法隆寺百済観音像や廣隆寺弥勒菩薩像は、すでにヒビどころか半ば残欠のような現状だが、現状のまま揺るぎない価値を有している。これは、いくら赤鶴だ龍右衛門だと言っても塗りがすっかり剥げ落ちた能面にほとんど価値がないのとは全く異なる。

能にも、これと似通うところがあるのではないか。

ひとつ言えるのは、本日の三川泉の舞台には生気がまだ充分残っている、ということだ。最晩年の後藤得三や友枝喜久夫や松本惠雄の舞台にはそれがなかった。

三川が本日の舞台で、いったい何を示し得たか。
それは「好きな人はどんなことをしても喜んで見るが、必要のない人にとっては何の重要さもない」とばかりは切り捨てられない問題を孕んでいるように、私には思われる。
名舞台だったか否か、そんなことはむしろどうでもよい。
少なくとも、能を真面目に見ようと思う者に深い示唆を与えたのが、波長の長い残照の紅を映じた本日の三川泉の〈井筒〉だったと、私は思う。

2012年5月25日 | 記事URL

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