好雪録

2012年6月アーカイブ

2012/6/30 八世観世銕之亟靜雪十三回忌追善能

梅雨はどこへやら。
昨日の赤坂アクトシアターは気持ちよい夏の晴天だったが、ちょっと蒸したとはいえ今日もお天気である。

そんな夏の一日、先代銕之亟の追善能を観世能楽堂で見る。
ロビーの展示場所に遺影を祀り、前には簡素な細首に紫の供花。
遺著となった『ようこそ能の世界へ~観世銕之亟能がたり』が1冊。
この本は名著だ。「良い入門書は?」と観能初心者に尋ねられると、私は今も必ずこれをオススメする。

※以下、詳細は批評の項目に移し、若干加筆を試みました(2012年7月1日)。

2012年6月30日 | 記事URL

2012/6/29 ミュージカル〈サンセット大通り〉

いろいろ書きたいことも落としているのですが、ちょっとPCの具合が悪く、後日まとめて記すことにします。山本東次郎氏をお招きした池袋コミュニティカレッジの古典藝能塾など、大きな成果がありました。

さて、私にとって期待作だった表題の日本初演を本日見物。

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2012年6月29日 | 記事URL

2012/6/26 新国立劇場バレエ〈マノン〉

今日の東京は年に何回もないような良い気候。
晴れて空気が乾いていて、風がよく渡り、汗かきの私でも汗をかかない適温。
梅雨晴なのだが、まるでヨーロッパの夏のようだった。

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2012年6月26日 | 記事URL

2012/6/24 若手役者の能を見ることとは?~大島輝久の〈熊坂〉

喜多流の大島輝久は将来の楽しみな若手で今年36歳。シテを演ずる舞台には毎回できるだけ欠かさず足を運びたいと思い、また、そのように心がけている。本日の同流職分会で彼は〈熊坂〉を演じた。

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2012年6月24日 | 記事URL

2012/6/18 これは「喜劇」か?三谷版〈桜の園〉

渋谷・パルコ劇場で三谷版 〈桜の園 〉を観劇。

興行の前宣伝では「"これがチェーホフ?これぞチェーホフ!"を合い言葉に、三谷幸喜が喜劇〈桜の園〉を演出します」との謳い文句で期待もしたのだが、果たしてこれで「喜劇」になっているのだろうか???三谷さん!とお訊ねしたい。

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2012年6月18日 | 記事URL

2012/6/16 高林白牛口二の〈伯母捨〉

京都・喜多流の孤塁を守る高林家の当主、白牛口二(こうじ)がわざわざ東京で〈伯母捨〉を披露したのを本日見てきた。

明治維新以後の喜多流でこの能を公開上演した役者は、粟谷菊生、大島久見、友枝昭世(2回)の3名あるのみ。もっとも、彼らに先立ち1973年12月に先代宗家・喜多實が非公開稽古能でこれを舞っている。来春に香川靖嗣の初演が予告されているものの、依然として「秘曲」であることに変わりはない。

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2012年6月16日 | 記事URL

2012/6/14 演出の妙~新国立劇場〈サロメ〉

宮本亜門の作風から考えてちょっと危惧していなかったわけでもない〈サロメ〉(←注意:音が出ます)が、演出として素敵な出来ばえだ。
平野啓一郎の新訳はちょっと上滑りする部分もないではないものの、予想よりよほど役者の生理に寄り添った自然なセリフに仕上がっている。

その平野新訳を収めた光文社古典新訳文庫『サロメ』(田中裕介の解説と注釈は出色)に付載された宮本達意の一文「『サロメ』に寄せて」を見ると(P,217)、今回の演出イメージの源に三島由紀夫の映画〈憂國〉があることが分かる。宮本は触れていないが、この映画の演出は堂本正樹。彼が熟知する能の様式性を最大限に活かしたものだ。

今回の舞台面に能を思わせる部分は直接的にはないけれども、古典藝術のちからが根源的に影響を及ぼしているとは言えると思う。
宮本はただ古典に追随するのではなく、自身の感性でそれを再創造し、実にスタイリッシュに整った美しい舞台づくりに成功している。同劇場のオペラ〈ローエングリン〉演出の珍妙な混濁とは大変な相違。

17日(日)で上演終了。
役者の出来にはデコボコもあるが、山口馬木也の若いシリア人(この隊長役の善し悪しがこの芝居の成否に深く関わると思う)に鬱情が濃く、奥田瑛二のヘロデ王とア麻実れいの王妃ヘロディアスがさすがに舞台を引き締める。
オススメの舞台である。

2012年6月14日 | 記事URL

2012/6/12 日本経済新聞夕刊〈隅田川〉能評掲載

明日、6月13日(水)発行の『日本経済新聞』夕刊に能評を執筆しました。
対象は、先だって二日間にわたり開催された、第6回日経能楽鑑賞会における〈隅田川〉(シテ:浅見真州/友枝昭世)。

ご興味の方はご一覧下さい。

2012年6月12日 | 記事URL

2012/6/11 二代目猿翁の「口上」

新橋演舞場の昼の部を見てきた。

口切の坂田藤十郎が懐から書き付けを出して読み上げる(セリフが憶えられないものと見える)口上幕では、大上手に秀太郎、大下手に右近が並び、明らかに他の役者の襲名とは違う身内感、さらに言えば無人(ぶにん)感が漂っている。

ひとわたり済むと、藤十郎の呼び立てで背後の襖が開かれ、猿之助改め二代目猿翁が押し出される。

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2012年6月11日 | 記事URL

2012/6/10 「ブーイング」の是非

本日は新国立劇場〈ローエングリン〉。これで3度目。
まだまだ聴きたいがこれで、日程的に私は今回で打ち留めである。

2幕目が始まる時、オーケストラピットに指揮者のシュナイダーが現われ、客席に一礼したとたん、私の1列前から強烈なブーイングの声が起こった。

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2012年6月10日 | 記事URL

2012/6/9 鎌倉のほととぎす

私事で恐縮ながら、本日は祖母の祥当。
千駄ヶ谷で狂言と能を見たあと、夕刻に誦経を願ってあった菩提所の鎌倉へ。
時刻も時刻、しかも雨天とて、観光客の姿はほとんど見ない。

本日から梅雨に入り、境内から見遙かす谷戸の山々がいやがうえにも霞む中、
テッペンカケタカとホーホケキョとがあちこちから入り混じって聴こえる。
杜鵑は鶯の巣に託卵するから、両者は同じようなところに住むのだ。

最近あまりに世俗の雑事に携わり過ぎ、正直、生活感覚が麻痺しかけていたところ、気の置けない和尚とゆるゆる閑話の間に鳥の遠音と雨音に耳を傾け、やっと人心地がついた。

こうした日は何となく、拾いものをしたように得をした気持ちになる。

2012年6月 9日 | 記事URL

2012/6/8 女性の能の限界

今さらながらの話題だが、しかし、考え続けなければならないことでもある。

本日の銕仙会では、観世清和の優れた〈頼政〉に続いて鵜澤光の〈胡蝶〉が出た。
母親譲りの丁寧な、意識の徹った気持ちの良い舞台だった半面、どこか一ヶ所わずかに躓くとその綻びで前後の大きな部分に穴が開く感が深かった。その穴は往々にして一曲のノリやハコビの問題なのだけれども、腹の力でグッと締め続ける力量が、女性だとどうしても希薄になるようだ。

先代井上八千代の舞踊にそんなことは感じなかったが、これは彼女が晩年は素踊、しかも裾を引かない着付で、短いものばかり舞い続けたことを考慮しなければならない。
衣裳付きで大曲を踊り、男性舞踊家と充分に伍せるか否かは、また別の話である。

能装束と能面が女性の身体にどうそぐうことができるか。
これはけっこう大きな問題かもしれない。

2012年6月 8日 | 記事URL

2012/6/7 日経能楽鑑賞会~友枝昭世の〈隅田川〉

一昨日と異なり、子方ナシの〈隅田川〉である。

随所に大変な熱演を見せた舞台だったが、シテの持ち合わせた特性とシテの採った方法との間に距離と矛盾を痛感した。

観客にとって舞台が「良かった、良くなかった」とは、終点ではなく、始発点である。
そのことを自覚しないと、能を見ることほど自閉に陥りやすい行為はないと、私は思う。

2012年6月 7日 | 記事URL

2012/6/6 西川扇藏・素の会〈山姥〉

すっかり枯れた中に花の香りの残るような風情。
西川扇藏が素踊で見せた清元〈山姥〉が滋味掬すべき名演だった。

緞帳が上がり、舞台に片膝ついて半身となった姿のキリリ引き締まったすばらしさ。
キマリの廉々のしこなしはすでに角が取れた柔和なもので、「つくらふ花の仇櫻」、そのあと合ノ手の振リなど、むしろキッパリ決まることを避けるかのように流してゆく。
これがたとえば、吉村雄輝だったら決してそうはしなかったものだけれど、それは流麗な中にもノリをキチンと刻んでゆく清元と、ノリを内在化させて外部に明確に打ち出すことを嫌う地歌との違いなのでもあり、扇藏はそのノリやキマリをすべて身体の中に納めているのである。従って何でもない間がキチンと生きており、全体に弛緩の影もない。

ことに優れているのは全体に女形舞踊、しかも老女の心が一定していること。「爺さま上下わしゃ丸綿で」あたりにそうした〈山姥〉らしい味わいが充分だったのは面白かった。

2012年6月 6日 | 記事URL

2012/6/5 日経能楽鑑賞会~浅見真州の〈隅田川〉

出色の舞台だった。

浅見はこの3月、東京囃子科協議会定式能における〈三山〉以来、ちょっと変わったのではないだろうか?
内的変化、充実、そうしたことを色々と思わせる。
今後に注目したい。

2012年6月 5日 | 記事URL

2012/6/4 〈ローエングリン〉再見

フォークトの出来はますます良いが、演出の意味が理解しかねる。

第1幕最後、敗者となったテルラムントとオルトルート夫妻が舞台上手で後日を期す言挙げをしているのに(結句これが悲劇の直接原因となる)、照明はこの2人を照らさず中途半端な闇に沈めたまま。
2幕目の大聖堂の場で、天井から降りてきてエルザの首から下を覆うランプシェードのような巨大な骨組み装置はドレスのローブの表象だろうけれども、その意味するところは?
3幕最後で白鳥から人間に戻ったゴットフリート王子が群衆に取り残され一人膝を抱えて幕切れになるのはなぜ?

これらを色々考えると、「深くて複雑」なのではなく、演出そのものが演出家の内的イメージ先行で説明を充分に尽くしていないのではないかと、私には思われる。

コンヴィチュニーを引き合いに出すのが絶対とは思わないけれども、彼のすることは、有効無効は別にして、もっと端的に分かりやすいものだ。

2012年6月 4日 | 記事URL

2012/6/3 狂言における性差と体制の問題~野村萬の〈花子〉

82歳の野村萬が32年ぶりに演じた〈花子〉をさきほど見て、色々と考えることが多かった。

前後二場、1時間に及ぶこの大曲を、齢80を超えて勤めおおせた役者は古今そうはいないはずである。
もっとも、たとえば亡き茂山千之丞のように格別な声や謡の力量に恵まれた老練の演ずる〈花子〉は、走り馴れたアスリートと同じで体力配分が行き届き、若い初演者よりよほど楽にこなす手技を心得ている、ということはある。
今回、当代一の妻の演じ手である山本東次郎を迎えた萬は、さすがに後場の最後こそ少し謡が弱くはなったものの、総体に「叩き上げた藝」としか言いようのない立派なシテを演じ納めたと見るべきで、充分に満足した観客も、たぶん多かったことだろう。

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2012年6月 3日 | 記事URL

2012/6/2 グルベローヴァ最後の来日公演

今秋8度目の来日を果たすヴィーン国立歌劇場公演の演目として紆余曲折の末に残ったドニゼッティの名作〈アンナ・ボレーナ〉。歳末には66歳を迎えるエディタ・グルベローヴァが主演する。
グルベローヴァは今回この役をもって日本告別のパフォーマンスとし、爾後、重ねて来日はしない由、明言した。

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2012年6月 2日 | 記事URL

2012/6/1 絶賛!!新国立劇場・フォークトの〈ローエングリン〉

先ほど聴いて、もう、すっかり仰天してしまった。
新国立劇場で新演出の初日を迎えた、ヴァグナー作曲〈ローエングリン〉
タイトルロールを歌ったテノール、クラウス・フロリアン・フォークトは、少なくとも私が考える「最高のローエングリン歌い」だ。

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2012年6月 1日 | 記事URL

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