2012/6/16 高林白牛口二の〈伯母捨〉 | 好雪録

2012/6/16 高林白牛口二の〈伯母捨〉

京都・喜多流の孤塁を守る高林家の当主、白牛口二(こうじ)がわざわざ東京で〈伯母捨〉を披露したのを本日見てきた。

明治維新以後の喜多流でこの能を公開上演した役者は、粟谷菊生、大島久見、友枝昭世(2回)の3名あるのみ。もっとも、彼らに先立ち1973年12月に先代宗家・喜多實が非公開稽古能でこれを舞っている。来春に香川靖嗣の初演が予告されているものの、依然として「秘曲」であることに変わりはない。

高林の〈伯母捨〉は仔細に見れば瑕も多い(謡の錯誤や間のズレ、後場で杖の突きように自在さを欠く、など)。が、開口明快な謡ぶりとも相まって、役者本人の生(き)のままの姿がそこここに露呈し、良くも悪くも「自我」がそのまま投げ出された、言い替えれば、演技的には巧みながらも内的には飾るところのない舞台で、嫌な感じはまったくなかった。彼の集大成と言っても良いだろう。

能を見ることは、まず、技術・技巧を正確に見ることに始まる。役者本人の意識・無意識に関わらず、演者の能の解釈はここから読み取れる。
だが、もっと大切なことは、技術・技巧がどの方向を向いているか、ということではあるまいか。

技術・技巧という観点ならば、玄人と素人の差は歴然とする。また、そうでなければ玄人は浮ばれない。
しかし、その方向、となると、素人ならず時として玄人も混迷を極める。別の言葉で言えば、歴々の玄人であっても、何のために能を演じているのか、深いところでは全く分かっていずに表面の技術・技巧に追われているだけの役者はたくさんあるのであって、そうした舞台に接する時は、いくら詳しく見て取ろうと思っても、こちらに何の評語も浮んでこない。

こうなると、「能を見ること」すなわち「人を見ること」に置き換えられるのではあるけれども、さて、ここにまた大きな落とし穴がある。
藝術の評価は人物そのものの評価とは異なるからだ。

つまり、無用で無価値な人間というものはこの世に一人も存在しない。
だが、無用な、無価値な「藝術」というものは、呆れるほどいっぱいある。

その「あわい」を、われわれはどうすり抜けたらよいのか?
高林白牛口二が2時間20分にわたり舞い続けた〈伯母捨〉の好舞台を見ながら、私はこのことをずっと考え続けていたのだった。

2012年6月16日 | 記事URL

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