2012/6/18 これは「喜劇」か?三谷版〈桜の園〉 | 好雪録

2012/6/18 これは「喜劇」か?三谷版〈桜の園〉

渋谷・パルコ劇場で三谷版 〈桜の園 〉を観劇。

興行の前宣伝では「"これがチェーホフ?これぞチェーホフ!"を合い言葉に、三谷幸喜が喜劇〈桜の園〉を演出します」との謳い文句で期待もしたのだが、果たしてこれで「喜劇」になっているのだろうか???三谷さん!とお訊ねしたい。

ここで、〈桜の園〉の「喜劇性」について、演劇史上よく知られた前提を述べておこう。

スタニスラフスキー演出による1904年モスクワ藝術座初演以来、世界的に〈桜の園〉の上演は、チェーホフ自身設定した「4幕の喜劇」と必ずしもパラレルではない悲劇寄りの解釈が主流である。わが国では長らく、東山千榮子や杉村春子といった第一級の名女優が主演する大芝居として定着してきた。その背景には、〈己が罪〉〈乳姉妹〉〈不如歸〉などなど、閉鎖的な人間関係を描き「滿都の紅涙を絞った」(現在では忘れ去られたあまたの)新派大悲劇と同じ地平でこのドラマを見て取ろうとする欲求があったものと、私は考える。
いっぽう西欧演劇史を踏まえる時、「喜劇」の語義をどう解釈するかに定説はない。ロシアが常に文化的規範と仰いだフランスの言葉で"Comédie"とは文字どおり「喜劇」とも、またはただ単に「芝居」を意味するとも考えられる。
もっとも、全体を「笑劇」と見なす提言は今回プログラム冊子冒頭に引用されたチェーホフ書簡(1903年9月15日・女優リーリナ宛)に記されているわけで、その意味でも、積極的に「喜劇=笑劇」として〈桜の園〉を解読し演出すること自体、実は大きな可能性を秘めているものと私は思う。

だが。
今日の舞台を見ながら私が考えた問題は、
「〈桜の園〉は喜劇か、そうではないか」ではなかった。
「〈桜の園〉が三谷によってどのように喜劇化されたか( 或いは、されなかったか) 」、だ。

私の感ずるところ、三谷版〈桜の園〉は原作改竄と入れごとが多すぎる。

プログラムに三谷自身がこう述べている。
「翻案といっても、チェーホフが書いていない新たな笑いは入れてないんです。キャラクターを膨らませるために、ちょっとせりふを足したり、しゃべりすぎてキャラクターが埋もれちゃう部分を少し間引いたりしましたけど。基本的に笑いに関しては、チェーホフがやりたかったことをそのまま同じ数だけ、作るようにしています」。
これは、本当だろうか?

今回は岩波文庫(1998年新訳)の「小野理子訳『桜の園』に基づく」とあって、翻案・演出が三谷幸喜となっている。
この「翻案」とは、どの程度、許されるのだろう。

まず上演前に、家庭教師シャルロッタ役の青木さやかが登場。燕尾服姿で歌を歌い、前説を勤めながら、「今回の〈桜の園〉は喜劇です!」としきりに強調する。
そうすると、洗脳されやすい観客たちはこぞって舞台をそう見ようと協力する。開演前に「喜劇化」の半分はこれで済んでしまっている雰囲気だ。すなわち、「三谷の芝居だもの、可笑しくないことがあるだろうか」という予見もあって、些細な仕草やコトバに過剰反応し役者の演技やセリフを先取りしてまで笑いが出る。
開幕前に保険を掛けるようなこの手はズルいと、私は思う。

原作改竄と入れごとは随所に指摘できる。
例えば、藤井隆扮するトロフィーモフ。この万年学生を揶揄するのに「ハゲている!」と皆が露骨に当てこする場面が何度もある。確かに、原作の第1幕(今回の演出は4幕通し幕間ナシ)でトロフィーモフ自ら「汽車の中で『毛をむしられた旦那』と言われた」と告白しているが、今回の翻案では第2幕でもそれが強調され蒸し返され、果ては抜け毛まで毟られる。こんな展開は原作の第2幕にない。
ラネーフスカヤの行動だってそうだ。
浅丘ルリ子は第2幕で園地貸出を執拗に進言するロパーヒンに向かい、それまでの淑やかな態度からは予想できない野太い声で「うるさいッ!!」と罵声を浴びせて退場した。原作にそんな「いきなりキレる」言動はない。第3幕ではパリに残したラネーフスカヤの情夫を非難するトロフィーモフに対して「アナタ童貞なの??そうでしょ!!」と直截的な口調で問い詰めるが、原作では「その年で情婦(いろおんな)の一人も持てないなんて!」である。「童貞」というセクシャルな生々しい語に置き換えるのは、「ハゲ」を強調するギャグ精神と近いところにある三谷流「観客いじり」の手法だろう。劇中、こうした事例はちょっと数えきれない。

これら「翻案」の是非は、どうだろう?
チェーホフが書いていないことを「翻案」という名目で演出者が意のままに加味するのは、戯曲としっかり向き合うことを逸脱した、きわめて安直な作業なのではなかろうか?

身も蓋もないことを言おう。
三谷ほどのマスコミ知名度=一般観客が三谷に対して自ずと抱く「テレビ画面でよく知っている」という親近感に依って立つ漠然たる好意、さえあれば、前説で「これは喜劇です!」と観客に刷り込む、すなわち、あとの芝居がどう展開しようとすでに笑いは「予約済み」だ。
老いたリア王の白髪を誰かが毟り、怒れる王女メディアが役を離れて役者の地を丸出しに「うるさいッ!!」と叫べば、どんな悲劇でも簡単に「喜劇」になってしまう。
そうではないだろうか?

私は、たとえ原作のどこかに笑いのネタが発見できるにせよ、戯曲全体にわたり演出家の恣意で脚本に加筆し、いたずらに「笑い」を拡散させるのはフェアではないと考える。

そうした割に、肝腎の部分が「喜劇化」できていない例も多い。

プログラムで山口宏子が引用する朝日新聞連載エッセイで、三谷は第3幕の(ロパーヒンが園地を落札した競売から帰った)ガーエフについて「屋敷が人手に渡るという最悪の局面で、なぜこの男はアンチョビを買ったのか?」と指摘している。確かに、私もここは「〈桜の園〉の喜劇性」を論ずる際に重要な部分だと思う。
だが、今回のこの場面のガーエフに喜劇性はまったく漂わない。藤木孝の演技は通常の演出(原作のト書きには「彼女=ラネーフスカヤの問いには答えず、片手を振っただけで、フィールスに向かって泣きながら言う」とある)とおり、認めたくない事実から顔をそむけて悲嘆を隠す完全な悲劇調だ。
もっとも、続いて江幡高志のフィールスが「これは良い匂いで、上物ですな......」と原作にはないセリフをサラリと口にして藤木の悲嘆を相対化するのは真の意味で「喜劇」らしく美事。とはいえやはり、「なぜこの男はアンチョビを買ったのか?」という点に喜劇的解答を示すのならばガーエフの演技をこそ再考すべきで、原作のト書きを離れた別解釈~例えば悲嘆の表情は絶対に避けて持ち帰った食品にのみ執心~を加えなければなるまいと思う。

要するに、三谷幸喜というキャラクターに全幅の信頼を置き、その手法を楽しむため素材として〈桜の園〉なる戯曲が使用されたのが今回の舞台である。先述したように、〈桜の園〉に内在する喜劇性を顕在化させるのなら、脚本の縮約・省略は許容する半面、チェーホフの原作にあるセリフは厳守。「翻案」と称する原作改竄と入れごとは原則として慎むべきだ。
私の目から本日の観客はふんだんにばら撒かれた皮相なクスグリで笑っていたに過ぎず、三谷が独自に発見し開拓した〈桜の園〉の喜劇的本質に接して笑っていたとはとうてい考えられないのだった。

役者の中ではラネーフスカヤの浅丘ルリ子が出色。この役の不思議な人徳と魅力とを十全に兼ね具えている。彼女の稀有な持ち味=現実に生きながら常に身に帯びて離れない非現実性、を素直に前面に立てれば、「翻案」などしなくても巧まずしてそれだけで「喜劇」が現前するだろう。
第3幕でロパーヒンが家屋敷すべて落札したと知ってから一言も口をきかず、子供部屋の子供椅子に腰かけたきりジッと正面を切って瞬きもせず凝固する表情のすばらしさ。かなり長い時間まったく息が抜けず、その見開いた眼からは次第次第に大粒の涙が湧きあふれ出る壮観。
これは、東山、杉村、両大女優の系譜に直接つながる大演技であり、感動である。
(トロフィーモフと行動を共にするアーニャが最後に庶民風の粗末な衣服に改まる以外、役者たちほぼ全員が最後まで衣装を変えない中、浅丘だけが登場のたびに美麗なドレスを着替えて出て来るのがまことに美しい。また、本日かなり前方の座席で見たのだが、浅丘が動くにつれ香水の良い香りが漂ってきた。プログラムに曰く、「ラネーフスカヤをイメージした服装で稽古場に行きます。アクセサリーまで彼女をイメージしたものを付けて」......言葉もない。アッパレ女優魂。)

ガーエフの藤木孝もすばらしい。権高さと弱さ、そして身分に備わる華を一身に体現し、大時代の演技がまったく身体から遊離しない点、彼以上の適役はまず思い浮かばない。前述「アンチョビ」の件での涙を隠した複雑な表情は美事だ。もっとも、こうした「伝統的演技」は三谷の指示ではなく、藤木みずからの自然な解釈だろう。

フィールスに江幡高志を得た成果は大きい。老耄し、ちょっと得体が知れなくなったこの役の不気味な滑稽感を十全に体現している。
ただし、三谷の指示によるものか、部分的にはその役柄造形に疑問もある。
終幕、全員が屋敷を出て行った掃き舞台に下手から白の寝衣とナイトキャップ姿で呆然と登場(客席からは盛んに笑い声が起こったが、私はここで笑うどころではなくゾッとした)、原作どおりの幕切れになる訳だが、その前に、ガーエフが積み残して行った積木の家を江幡はステッキで打ち砕く。呆けたフィールスはガーエフを「お坊ちゃま」と子供扱いで大切にしていたのだから、この所作は解せない。実は今まで呆けたフリ、胸奥には主家に対する積年の反感を秘めていたのだろうか......?
それにしては「反感」を裏付けるセリフや所作を欠いたまま、フィールスは外気温零下3度の床に直に横たわってしまう。いくらなんでも、椅子や小寝台が近くにあるのに......
(ちなみに、プログラムのインタヴューで江幡が述べている「藝談」は、簡略ながらこの役の本質を美事に射抜く言葉が並んでいて必読。第1幕で、むかし荘園で採れた桜桃が美味でよく売れたとボソボソ言う部分は老人の懐古癖ではなく「ロパーヒンに対する反論」だとするのは卓見で、この部分で江幡が見せた飄逸味をまぶした内向性は実にすばらしかった。)

他の役者たちにそれなりの魅力はあるものの「この役は絶対にこの人」と思わせるものは感じなかった。
浅丘、藤木、江幡の3人へ寄せる私の深い感嘆は、三谷の翻案・演出とはほとんど無縁、それぞれが長年の間に個々に培った卓越した個人藝に属することである。

最後に、繰り返そう。
今回の〈桜の園〉。これで本当に「喜劇」になっているのだろうか?

2012年6月18日 | 記事URL

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