2012/7/17 ミュージカル〈スリル・ミー〉 良知真次×小西遼生  | 好雪録

2012/7/17 ミュージカル〈スリル・ミー〉 良知真次×小西遼生 

関東地方の梅雨が明け、たいへんな暑さ。
3月14日に麻布十番のアトリエ・フォンテーヌで見たミュージカル〈スリル・ミー〉を再見。

先日の再演は田代万里生×新納慎也の本邦初演キャストだったが、天王洲銀河劇場に場を移した今回の三演は、初演組に加え韓国人キャスト1組を加えた計4組のローテーションである。あらすじその他は、先日の稿をご参照願いたい。

今宵は良知×小西コンビによる2回目の公演に当たる。正直、残念な出来、というところ。

キャパシティ100名ほどのアトリエ・フォンテーヌに比べ、銀河劇場は746席。規模は比較にならないほど大きくなったものの、この程度ではまだまだ中劇場であり、加えてミュージカルはワイヤレスマイク装着が原則だから、歌の響きの点で遜色はない、はずである。

が、それにしても「私」役の良知の歌はいかにも拙い。大学生のカラオケでさえもっと巧いのがいるだろう。持ち声自体あまり魅力がないのに加え、レッスンで練り上げた声でもないので伸びと響きがない。これはちょっと採点対象外、というところである。
もっとも、「彼」役の小西だって歌の拙さには定評のあるところで(最近マシにはなったとは本当か?)、事実、褒められたものではないのだけれど、良知と並ぶとよほど巧く聴こえる。とはいえ小西は演唱ぶり以前に地の歌声が無表情なので、聴いていても「表現」としての手ごたえはこれまた皆無に近い。

というわけで、音楽的にはガッカリ、という結果だった。

以上のような結果はまあ、予想できたところだが、それでも私が懲りずに足を運んだのは、この閉じられた人間関係を描く小規模作品に、切り口のけざやかな劇的興奮=文字どおり「スリル」が生きているからだ。

俗世の愛情の行き着く果ては、束縛しかない。そこには、被虐者たる「私」と加虐者たる「彼」のような支配・被支配の関係が生ずる。
このドラマの最後では、実は「私」こそ「彼」を支配していた事実が明かされ、オセロゲームの逆転のように白と黒が一挙に反転し、被虐と加虐の関係が裏返る。
今日あらためて良く見ると、実は、「私」は開幕当初から「彼」を性的に挑発するようなセリフを発しているのである。それに、演題の「スリル・ミー」とは、「私」が「彼」に求める被虐的なリビドーの切望であり、劇中でも血盟(この部分の芝居のツマラナサは前回同様)を交わした直後、「私」によって歌われるナンバーの曲名でもある。

小池徹平風あるいはハリー・ポッター風に可愛くメガネを掛けてバード・ウォッチングにいそしむ19歳の優等生「私」こそ、冷酷な「彼」が最後に力なく認めるように、ニーチェ流の「超人」を超えるオソロシイ「超人」なのだ。
良知くん、君の責任は重いのだよ。

歌唱力を度外視し演劇的なキャラクターとして見れば、ともかくも一生懸命で好感の持てる良知と、空疎な人格を予想させるクール・ビューティーで通す小西と、適役ではあるのだ。ただし、スタイリッシュに対立構造でまとめて2人の交情をあまり印象させない栗山民也の演出は私の目からは物足りないし、これはストレートプレイでなくミュージカルだけに、歌の巧さで勝る田代万里生の「私」と新納慎也の「彼」のほうがエキセントリックな人物描写の点で相対的には優れていた。

これを宮本亜門に演出させたら、どうだろう。主演は歌唱力と演技力を具えた、年齢的にもあまり隔たらない2人、たとえば、実年齢は逆だけれど、原田優一の「私」、山崎育三郎の「彼」で、互いの鬱血をすすりねぶるような淫らがわしい「スリル・ミー」が見られてこそ、この優れた作品の底力と真価がはじめて露わになるのではなかろうか。

2012年7月17日 | 記事URL

このページの先頭へ

©Murakami Tatau All Rights Reserved.