2012/7/30 明治天皇百年祭 | 好雪録

2012/7/30 明治天皇百年祭

今日は明治天皇の祥月命日。つまり、明治時代が終わって今日でちょうど100年、ということである。
皇居・皇霊殿と伏見桃山陵とで「明治天皇百年式年祭の儀」が執り行われたわけだが、「ゼニになる」オリンピック開催期間とて、報道面で目立った扱いはほとんどない。別にオリンピックが好きでないから言うわけではないけれども、やはり、日本のマスコミが力を入れるべきなのは、オリンピックよりは明治天皇、明治天皇よりは原発、だろうと私は思う。

明治神宮のサイトは、御祭神のことだけあって、これについてはさすがに充実している。ただ、人間を祀る宗教施設は大なり小なり個人崇拝の臭みは脱し得ないから、ただもう心酔したい人は別にして、明治時代を、明治天皇を、よくよく考えてみようとする人にとってはあまり意味がない。

私は明治天皇となれば、ドナルド・キーンの大著ではなく、亡き飛鳥井雅道の『明治大帝』(ちくま学芸文庫または講談社学術文庫→現在どちらも絶版)が基本だと思っている。「飛鳥井家」とは、言わずと知れた藤原北家師実流難波家の庶流で羽林家。江戸時代以降は蹴鞠道の宗家である。本書にも、蹴鞠の門弟に許す烏帽子の紐色で莫大な謝礼を取った風習について、自家の家名は明記せずさりげなく批判的に触れているように、京都大学で教鞭を執った彼は左派の歴史学者だった。が、覚醒した客観的分析を基本としつつも、あえて臆面もなく「大帝」と書名を付けたとおり、明治天皇に対する内なる親愛の情を隠していない。その、両極にわたるとも言える筆者の「ブレ」が、まことに正直なのだ。

過去の人物を検証するのに、この両極は大切だと私は思う。
突き放した目と、飽くなき興味と。
前者は考証の精神であり、後者は史観に支えられる。そのどちらを欠いても、歴史を語ることにはならないからだ。

考えてみれば、これは舞台を語る、藝能を語ることにも通ずるのである。
つまり、明治という近代をわがこととして語れない者に、能を、歌舞伎を、文楽を、語る資格はない、ということだ。

44年前、1968年(昭和43年)の「明治百年記念」は、明治維新から敗戦後まで断絶の意識なく、通時的に近現代の「発展の歴史」をたどろうとする、自民党的な、戦略的な政治・文化パフォーマンスだった。今回の「明治天皇没後百年」は社会的にほとんど何の影響も及ぼさず、問題提起もなしていない。

よいものか、悪いものか。

2012年7月30日 | 記事URL

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