2012/7/28 ミュージカルの観客 | 好雪録

2012/7/28 ミュージカルの観客

今日も酷暑。
ひさしぶりに何もない籠居の日なので、午前中は腑抜け放心。昼食に素麺を頂き、京都・亀廣永の寒天棹物「したたり」を菓子に薄茶2服。午後は片づけものに精を出します。

昨日の帝国劇場。
25分の幕間にロビーに出たら、来年新制作が予定されている「レ・ミゼラブル」予告映像が映されている。もっとも、配役はオーディションによって銓衡されるので現時点で未定ゆえ、海外版のビデオである。
私が通りかかった時はたまたま第2幕の「最後の戦い」、アンジョルラス最期の段であって、連帯歌"Red and Black"が流れる中、革命の志も半ばに学生たちは次々と政府軍の銃弾に斃れる。

私はこの場面、ダメである。

濛々たる硝煙のバリケード、殷々たる銃声のうち、高らかに響きわたるこのメロディーの一節をスピーカーから聴いただけで、たちまち涙腺がゆるみ、目の前が霞んできた。

ユゴーの原作では、革命の志士・アンジョルラスは良家の出身で真のカリスマ、「女にもして見ま欲しき紅顔の優さ男」」(黒岩涙香訳『噫無情』)。ミュージカル版では役者によって性格づけは色々だろうが、第1幕、同志らの集まるABCカフェで「レッド、熱き血潮!ブラック、呪いの過去!レッド、夜明けの色!ブラック、夜の終わり!」と華麗なアジテーションを歌い上げる。これが"Red and Black"の連帯歌なのだが、実際は市民の支持を得られず革命は不成就。歴史上「1832年パリ6月暴動」としか記録を留めない。

ミュージカル第2幕、アンジョルラスは同志らに先立ち「立つのだ仲間よ、世界に自由を!(Let others rise to take our place until the earth is free!)」と叫びざま堡塁の絶頂に駆け上がり、シンボルの赤旗を打ち振るところ官兵の一斉射撃を受け、壮絶な最期を遂げる。
一部始終を見ていた同志・グランテールは、アンジョルラスの「勇ましく且美しい姿と心に引かれた」(『噫無情』)男で、それまで大酒泥酔に沈んでいたのを、アンジョルラス絶命と見て取るや狂気の如く立ち上がり、やはりたちまち撃ち殺される。この2人の死を悼むかのようにオーケストラ全奏で"Red and Black"の旋律が鳴り響く時、革命を志した人びとの拠ったバリケードは遂に陥落する。

ふと我に返って驚いた。
画面を囲んでたくさんの人々がこれに見入り、やはり同様に感涙を催しているのだ。
これは親しみのない外国人キャストの、しかも断片的なプロモーション・ヴィデオである。
なれば恐らく、「レ・ミゼラブル」という作品そのものに熱い思いを寄せるファンなのだろう。
画面に見入る人々がみな、ABCカフェの盟友たちにでもなったような感じ。
そうとしか、ちょっと考えようがない。

こうしたことは、能でも歌舞伎でもかつて経験したおぼえはない。
松竹の伝統文化放送があった頃、歌舞伎座や演舞場のロビーでは翌月の予告が流れ、過去や現代の役者たちの熱演が画面に映し出されていたものだ。
そんなものに見入って感に堪えている人など、まず、お目に掛かったことはなかった。

そういえば能楽堂でも歌舞伎劇場でも聞くともなしに聞いていると、観客の会話の大半は自身の見聞きした感覚的な感想で、型や演技の詳細にわたる批評ではない。HPの日記やブログの類もまず同様、あくまで「自分の自己感覚優先」である。

それが、ミュージカルだと違うのだ。

まず、入れ込んだファンとなれば同一興行に2度、3度と足を運ぶ。複数配役ならその組み合わせで、ともかく劇場に通う頻度が歌舞伎とは異なる。
それに、劇場内での会話を聞いていても、まあ、メモでも取っているのではないか(照明を落とした客席で実際まず無理)と思われるほど詳細に、役者たちの一挙手一投足を観察しその相違を比較検討している。つまり、「オーラが見えた」とか「位取りがちょうどよかった」なんていう雲を掴むような言葉ではなく実に具体的なので、こうなると評論には至らなくとも批評のレベルには充分に達した評語である。
試しに東宝版「レ・ミゼラブル」に限ってで良い。ウェブ上をちょっと検索するだけで、真偽はともあれ「坂元健児のアンジョルラスはグランテール対して冷たいだけじゃなく、バリケードに駆け上がる直前、たまらない笑顔で彼を見つめた」とか、「それならば岡幸二郎のほうがそうだった。たとえばその前の『共に飲もう"Drink With Me"』で......」など、これまでの上演で誰がどんなことをいつやり、それがどうだったか、詳細な演技記録が集成できるはずだ。

歌舞伎や能で、そんなことはない。
集成できるのは個々の観客それぞれの自意識の記録であって、舞台で何がどう行われたかの記録ではない、と思う。

こうしたことに、どんな意味があるものか、ないものか。
少なくとも私にとっては実に興味深い問題であり、色々な側面で考察する価値があるように思われてならない。

ともかく、ミュージカルというものは極めて感覚的であり、時によっては煽情的ですらある。タモリがよく「突然、スイッチが入ったような表情で歌い出して気味が悪い」と揶揄するのはもっともなことで、それゆえに好き嫌いがハッキリし、他の舞台ジャンルと比べても観客の住み分けが明確なのがミュージカルという舞台藝術である。
この分野で、歌舞伎や能の世界に勝って「型や演技」に寄せる詳細な分析批評が観客間に存在する事実。
「昔は芝居小屋の出方が型のことなどよく知っていて『今度の音羽屋のここが見どころですから見逃さないようなさいまし』と教えてくれた」と岡本綺堂ほか過去の古老の回顧譚によくある逸話と同じことが、ミュージカルの客席には健在なのは不思議である。

古典藝能の観客の感覚化・自閉化(批評意識を欠いて内部感覚に固執する限り、評語は独白の羅列に過ぎず、観客個々はタコツボ化する)という問題とも併せて、舞台と客席との関係に、私は尽きない興味を抱いているのです。

2012年7月28日 | 記事URL

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