2012/8/1 北村治の死とその藝 | 好雪録

2012/8/1 北村治の死とその藝

何の変哲もない姓名だから、能に関心のない人にとっては正直「誰?」という感じであろう。
大倉流小鼓方の北村治が昨日、75歳で亡くなった。

この世代の能楽小鼓方には4人もの名手が並んでいた。
観世流の敷村鐡雄(1930年生)、観世豊純(1934年生)、幸流の横山晴明(1935年生)、大倉流の北村治(1936年)である。これに先立つ大倉長十郎(1925年生)を加えれば実に5名の打ち手が揃っていたわけで、もし全員が藝歴をまっとうすれば、彼らが円熟期を迎える昭和後期から現在に至るまで、老女物の小鼓方を選ぶのには幸福な苦労をしなければならなかったはずである。

それが、長十郎と敷村は早くに亡くなり、豊純と北村は身体の不調で万全でないまま円熟期を逸し、広島在住の横山のみ限られた僅かな機会に大舞台を勤めるばかり。
寂寥を極めた現況と言う以外にない。

この5人、みな、揺るぎない確かな藝の保持者である。「人間国宝」に指定されたのは北村だけだがこれは僥倖というべきもので(長十郎が長生きしていれば立場上、大倉流小鼓方として彼こそ鵜澤壽のあとを受けて「国宝」になったはずだ)、5人の間に藝の上下はない。あるのは個性の相違のみである。

小鼓の藝を論ずるには、たいへんな論理を尽くさねばならない。
ここでは概略のみにとどめざるを得ない。

小鼓に限らず、囃子の藝の根本は「強くなければならない」ということだ。
笛ならば吹き込み、それ以外は打ち込みの「強さ」。これが根源である。

これには持って生まれた条件も大きい。
学生時代に手ほどきを受けた観世豊純先生の言葉で今に忘れないのだが、初稽古で鼓を構えた瞬間、打つ前に「将来こいつはどこまで行けるな」と大体が分かる、と仰せだった。地歌の富田清邦氏は盲人だが、やはり、素人が箏や三弦を鳴らす第一音でそれが分かると同じことを言われていた。
小鼓の場合、手の大きさや厚さ、響きをなす全身の骨格で、同じ楽器でも鳴りは全く異なるものだ。どうしても「強く」打ち込めない者は、将来の大成を諦めたほうがよい。それが藝道の厳しさである。

だが、「強さ」と「荒さ」とはまた違う。
単純に言って小鼓の場合、1クサリ=8拍の上4拍を主導する大鼓を受け、下4拍をハコブ役割があるけれど、「強さ」と「荒さ」がゴッチャになった小鼓方は何も構わず打ち流す。
それではダメである。
上4拍の大きな力を取り込み、それを内にグッとタメたまま、表面的には流して打ち進むのが小鼓の藝というもので、それだけ心身にストレスが溜まる。
北村と豊純が60代前半に早くも衰えを見せたのはそのストレスに肉体が耐えきれなかったためである。

前記5名の小鼓方は、私にとっては誰もが藝の手本だった。
中でも、北村治の小鼓の魅力。
それは、時に乱調に至る危険を冒してでも、タメる部分と流す部分とを自在に打ち分ける面白さだった。同じ大倉流でも、間合いに厳格で打ち止める手が整っていた大倉長十郎とは大きな相違である。

たとえば、一声の打ち出し。
笛がヒシギを吹き立てると、北村は初めの乙(ポ)を待ちきれないような咳き込んだ間で強く打ち込み、そのあとやや大きめに間を取ってから、甲(チ)と乙(ポ)の音を重ねるが、その乙(ポ)で留めるにはわずかに重く据えるような間で打ったものだった。
これは北村がわずか1クサリ=8拍のうち3つの音を打ち込む部分のみを文章化したのである。囃子事に興味がない向きにとって「?」ばかりであろうけれども、お許しを頂きたい。

要するに、北村の小鼓は、聴いていて「面白かった」!

間に伸縮があって、時に切羽詰まったセッカチな打ち出しを見せても、その分どこかで引き締め、帳尻を合わせてしまう。こうした藝はともすると放恣に流れ易いのだけれど、根本は打ち込みの「強さ」に支えられているから、充実期の北村の藝はアクロバティックなところに遊びつつも、綻びを見せなかった。

それが乱れたのは、本来ならば円熟期に入るはずの60代に至ってから。
気力の衰え。肉体の衰え。タメが効かなくなってからは間がコケるいっぽうで、舞台での構えも悪くなるばかり。
ちなみに、小鼓は正しく正面を向き、革の平面が顔と並んでいなくてはならない。鼓を支える左手の腕力が落ち、楽をしたくなると、背が丸まり革が下を向く。勢い、打ち込む右手の動線は短くなるから、出る音はちょっと聴くと大きいものの、一音が鳴るまでの右手の遊びがないために音の含蓄と間が浅くなって、これでは本当の小鼓藝ではなくなる。
たとえば、88歳で亡くなった鵜澤壽は生来リズム感覚の点では決して妙手と言えなかったけれど、最晩年まで構えは正しかったから、打ち出される音色の綺麗さは群を抜き、北村のように間が乱れることはなかった。
衰えた後の北村の構える鼓は正面どころかほとんど下を向き、これを打つ右手の動線は本来あるべき半分から三分の一になっていた。肝腎の間(ま)はことごとく乱れ、ちょっと聴いていられなかった。はなはだしい震えに悩まされるようになってからの豊純が相当長いあいだ間だけは厳格でコケずに保てたのと、この点が違っていた。

5年前の2007年4月14日に横浜能楽堂で上演され、NHKで収録されて同年9月9日に放映された友枝昭世の〈伯母捨〉でキャリア最末期の北村治が打つ小鼓は、彼の藝の残滓の記録でしかない。
この記録を見聴くわれわれは、これを批判的に聴き取らねばならない。
小鼓の、囃子の藝というものはそれほど厳しいものであり、また、過去本来の北村の藝とはそれほど魅力のあるものだったからである。

正式引退ということもなくいつの間にか観客の前から姿を消した北村治の動静について、もう素人にも稽古は付けていないそうだとか、道具類はみな処分したそうだとか、噂ばかりが耳に入っていた。シニカルな人間性について色々と逸話も多い。
幸祥光と並び称せられた名人・北村一郎を父に持ちながら家藝として後継者はなく、玄人の門弟としてはわずかに坂田正博が残るばかりだろう。

どこか世捨て人のような自在な態度で藝に携わっていた、そのボヘミアン的な気質が典型的に顕われた小鼓方。
きわめて「強い」打ち込みのタガを嵌めることによって、変幻自在の感覚性を操っていた、振幅の大きな藝。

それが、大好きだった全盛期の北村治だと、私は考える。

2012年8月 1日 | 記事URL

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