2012/8/13 〈菅丞相・片岡仁左衛門~義太夫狂言の演技〉 | 好雪録

2012/8/13 〈菅丞相・片岡仁左衛門~義太夫狂言の演技〉

本日、所用にて三宅坂・国立劇場へ。
ぶり返した残暑の日中、足の便のあまり良くない(私はこの劇場が正直あまり好きでない)場所とて、よほどのことがない限りこんな日には赴かないのだが、まあ、仕方がない。

用事はじきに済み、昼食を抜いて空腹でもあったのだが、ふと見ると併設の伝統芸能情報館で企画展示「歌舞伎入門~菅原伝授手習鑑の世界」が開催中である。

私は義太夫狂言の中で〈忠臣藏〉と〈妹背山〉と〈菅原〉が最も好きなのだ。

とはいえ、それらはあくまで「九段目」「吉野川」「道明寺」なのであって、決して「六段目」や「金殿」や「寺子屋」なのではない。
そして、「道明寺」は山城少掾と四世清六の録音であり、十三代目仁左衛門の菅丞相の「道明寺」なのである。

国立劇場の展示だけあって、総花的ではあるものの、「道明寺」東天紅の挟箱に仕掛けの鷄や不思議の木像の小道具も間近で見られ、丞相さまがこの場で召される青紫地に梅鉢散らしの直衣まで出ているのはありがたい(ただし指貫が鈍色でなく浅黄なのは残念)。

そして圧巻は、1982年公開の映画〈菅丞相・片岡仁左衛門~義太夫狂言の演技〉。
これは羽田澄子監督による名高い連作の一部であり、国立劇場開場20周年を記念した1981年11月の通し狂言〈菅原〉前半に菅丞相を勤めた当時77歳の大松嶋・十三代目片岡仁左衛門の記録である。
仁左衛門は、この舞台によって確実に歴史に残る名優の座に列した。
当時、NHKによりテレビ録画され、翌年5月16日に放映されたこれを見て感に堪えた日記が私の手元に残っている。

記録映画は、大松嶋がこの役を作り上げて行く稽古の段階を克明に追っている。

畢生の当たり役とも喧伝された〈菅原〉の菅丞相を、仁左衛門は実は、生涯を通じてたった3度しか演じていない。
★1961年8月/大阪・毎日ホール
★1981年11月/東京・国立劇場
★1988年2月/東京・歌舞伎座

初演は当時絶滅状態にあった上方歌舞伎の再興を志した「七人の会」。これは同人7人の自主公演である。
「道明寺」の菅丞相は十三代目の父・十一代目屈指の当り役だった。が、十三代は当時、父の役をすべて振られるような立場も実力も認められていなかった。それだけに「七人の会」当時はこの初役に相当な気概をもって臨んだ。
幸い好評を持って迎えられたこの「道明寺」に寄せた意慾が、翌年からの(当初全く勝算の見えなかった)自家自主興行「仁左衛門歌舞伎」旗揚げに繋がったと見なすこともできる。

それから20年。
「七人の会」と同年の国立劇場開場記念上演と同じ演目の主役(三宅坂開場時は先代勘三郎の菅丞相に対して仁左衛門は判官代輝國であることが当時の彼の立場をよく示している)を、77歳にもなってようやく宛がわれた仁左衛門の思いの深さは、この興行をいわば「聖別」し、観客に絶大な感動を与えた。
7年後の1988年、歌舞伎座百年記念興行における85歳の「道明寺」でも、藝の衰えは全く見られなかった。むしろ、藝容はさらに豊かに、人間的哀愁はより深くなっていた。

私は十三代仁左衛門の菅丞相を心ゆくまで何度も何度も見られたことを、一生で最も大切な宝のひとつにしているのである。

とはいえ、この記録映画の価値は単なる回顧の具としてあるのではない。
歌舞伎というものの、義太夫狂言というものの、最も大切な「あるもの」が、ここには確実に記録されている点にその価値のすべてがある。

稽古場での仁左衛門のダメ出しの的確さ。
20年ぶり、たかだか再演の役にも関わらず、竹本の浄瑠璃や三味線はもちろん、共演の他役の型、さらにそれをしこなしてゆくコツや呼吸などを、何らメモも見ることなく(当時まだ仁左衛門の視力は後年のように失明同然とまでなってはいなかった)、微に入り細に亙って、それこそ掌を指すが如く説き示してゆく。
自身、女形はまったくと言ってよいほど演じなかったにもかかわらず、段切れに檜扇を引き合う十三代考案の名型の件で、自ら所作をして玉三郎の苅屋姫に教えるところなど、あの年老いた大松嶋のほうが、当時31歳の玉三郎よりよほど「色気がある」のである!

私が大松嶋でなるほどと一番感心したのは、幕切れ柝の頭直前「天神の見得」の件。

当代仁左衛門の菅丞相は、1995年、十三代目の一周忌で演じた孝夫時代の初演の時は、「父に伍する丞相さま」と私でさえ唸らされた引き締まった名品だったけれど、その後は仕勝手と涙がまさり(十三代は当代のようにボロボロ泣くことは決してなかった)この芝居と役に必須の気韻を甚だしく落としていて感心しないのだが、以前指摘したように、当代仁左衛門の最近の舞台で最も良くないのは、天神の見得で苅屋姫が泣き伏したまま父の顔を見ないことである(姫でなく丞相の役者に監督責任がある)。
「これがこの世の別れとは知らで別るゝ別れなり」の名文を思うにつけても、名劇「道明寺」のドラマの頂点は、父と娘と、一幕中に最後ただ一度だけ目と目を見合わせるこの一瞬にあるのだ。

私は、十三代の舞台でそういうことは決してなかったと記憶している。
この映画では、「嘆きの聲にたゞ一目、見返り給ふ御かんばせ」で右袖をキリリ巻き上げた時、大松嶋が玉三郎に向かって「ここで、こっちゃを見て!」という指示をハッキリ口にしているさまが記録されていた。
やはり、大松嶋は「分かっていた」のだ。

この丞相名残に先立つ東天紅の件で、懐かしい助高屋小傳次の土師兵衛とまだ髪黒々とした富十郎の宿禰太郎が「一鷄鳴けば萬鷄歌ふ、函谷關の關の戸も、開く心地に、親子が悦び」とキマルところは、仁左衛門は仕事がない。
だが、仁左衛門は休んでいない。
二人に対して時おり指示を出すその老体をよく見ると、大松嶋自身のイキと身体は、宿禰太郎の型を克明にたどっているのである。

十一代目仁左衛門が大正の末年に市村座で最後に「道明寺」を演じた興行で、千代之助だった十三代は宿禰太郎を演じている。
それから60年。
この間まったく演じていなかった役が、十三代の身体の中で「烈々と生きている」。
本役の富十郎が元気に発奮している宿禰太郎よりも、仁左衛門が輪郭をたどっている宿禰太郎のほうがよほど溌溂としているのだ。

私はこれを見て、身が震えるほど感動した。
藝とは、座頭役者とは、まさにこうでなければならないに違いない。

義太夫に精通した仁左衛門だけあって、亡き和佐太夫の浄瑠璃と英治の三味線に与える指示も精緻・的確を極めている。
三味線は指遣いまでなぞっており、浄瑠璃は太夫よりもハラとイキが深く切っ先が鋭い。
竹本に対する仁左衛門のダメ出しは、これはもう分かる人には分かるとは思うが、「ここ」という確実な一点を精確に突く指摘なので、それが加わるごとに芝居が見る見る陰翳深く、はっきりいえば「たまらなくおもしろく」盛り上がってくるのである。

ほかに誰もいない館内、独り占めにした映写スペースで、こうした仁左衛門の役者ぶりを見るにつけ、微笑ましくも、感心もしているうち、私は確かにこの人の菅丞相に間に合い、一生涯の宝を得させて貰ったのだということに思い至るとそのまま、画面にありあり甦った大松嶋の姿がたちまち曇って、もう何も見えなくなってしまった。

上演時間35分。ともかく、いま見ても驚異の記録である。
「歌舞伎をどう見るか」「義太夫狂言をどう見るか」について、根源的な示唆を与える記録と断言できる。

9月24日(月)まで。入場無料。
とくに、十三代目片岡仁左衛門を知らない、若く志のある人たちには、是非とも足を運んで頂きたいと切望する。

2012年8月13日 | 記事URL

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