2012/8/17 横道萬里雄氏逝去~創作・新演出総括の可能性 | 好雪録

2012/8/17 横道萬里雄氏逝去~創作・新演出総括の可能性

横道萬里雄氏が去る6月20日に95歳で逝去していたことが、昨日、初めて報道された

戦後の国文学研究において、能の分野に横道氏と表章氏と、2人の碩学が輩出したことは極めて大きい。
誤解を恐れずに断言するならば、現在、日本學士院会員になっている国文学の研究者、『源氏物語』研究の秋山虔氏や『新古今和歌集』研究の久保田淳氏には、それに匹敵する研究者が必ず将来も出るだろうと思う。

横道氏や表氏の場合、どうだろうか?
天野文雄氏や竹本幹夫氏ですら比肩はちょっと、と思わせるほど大きなものが、この2人にはあったのではなかろうか。

戦後の社会的状況がさまざまな点で能楽研究に有利に働いたことが、この2人の力量に追い風となったことは確かである。
だが、「チャンスに恵まれるから才能が伸びる」のではない。
まさに、「偉大な才能は、偉大なチャンスを呼びを込む」ものだと、この2人の偉業を思うにつけて、私はつくづくそう思う。

演出や新作など実際の舞台作業に全くと言ってよいほど関わらなかった表氏は純然たる研究者だったが、横道氏はそれと反対に積極的に舞台づくりに関わり、能評も書いた。

だが、これは誠に残念なことではあるが、横道氏の新作や復曲・新演出について、正しい意味で批判的な評価がなされたことは、ことに近年ほとんどなかったように思う。

その中で目立つのは、1985年12月に銕仙会で初演された観世流復曲〈三山〉をめぐる論議である。
この時、初演者である八世観世銕之亟と横道氏との間で作られた能本は流儀の公定曲に組み入れられたが、この〈三山〉は古本とは随所で異なる異本であり、その「創意」についてかなり否定的な意見が寄せられた。
これに対する横道氏の反論は著書『能劇そぞろ歩き』に一括してまとめられているが、いま読み返しても議論はどうにも平行線である。

横道氏の言う、「現代の能のなかに中世の美だけを抜き出して感じ取るのも自由ですが、そうした狭い目の観客だけを相手にしていたのでは、能は滅びてしまいます」(同書217頁)という意見は、それだけ採り出せばもっともなのではあるが、復曲版〈三山〉はいくら横道氏流に筋の徹った改編ではあっても、煎じ詰めるところ「横道氏の価値観」でしかない。

つまり、私はこう考える。
「横道氏が創意に溢れた新演出や脚色を試みたのは大歓迎。ただ、それを『流儀の定本』という絶対的な規範にされては困る」。

横道氏は言ったかもしれない。
「いや、また誰だって自由に変えて上演してもらって良いんですよ」。
けれども、能の現場でそれは滅多なことでは許されない。
つまり、「定本」としての謡本が刊行された時点で横道版は「規範」と化し、容易には改編のできないものに変じてしまうのである。

そのためか、観世流内で〈三山〉が上演される機会は現在も決して多くはない。これには、「新たに覚えるのが面倒」という楽屋の事情もあるに相違ないけれど、やはり、この新版につきまとう「新作臭」に違和感が拭いがたい側面もあるのではなかろうか。

私はこの現行横道版〈三山〉は好きになれない。
どうせならば、尋常な古本のかたちを定型とし、横道氏は斬新な演出をもって随時、事に当たるべきだったと、今もって考える。

実際に上演される能の演出の是非について論ずるのは、単なる研究者にはなかなかできないことだと私は思う。
演出の是非は「演劇とは何か」という命題と不即不離であり、そこには役者の藝とは、戯曲とは、演劇とはいかなるものか、という広範な問題意識が不可欠だからである。

研究者としての横道氏の業績総括はその方面に任せるとしても、演出者・創作者としての横道氏の批判的総括がどのようになされるかが待たれるところだ。
今後いささかなりとも能の批評を書くような者は、以上の問題ひとつを取っても、自らの見解を明確に論理的に打ち出さずには済まされまい。

たとえば、横道氏の著作『能にも演出がある』57頁以下に示された氏の〈養老〉新演出案について、これをどう評価するか。

研究者はまずまず続いて出てはいるものの、まともに能評を書く者が出てはいない現況を見るにつけ、演出・創作の面での横道氏の諸業績は、今後いつかは出るであろう(出てくれないと私も困る)若き批評家にとって、総括すべき現代の諸問題の大きな一角になるはずだと、私は考える。

2012年8月17日 | 記事URL

このページの先頭へ

©Murakami Tatau All Rights Reserved.