2012/8/29 浜松町かもめ亭「月亭八天・桂吉坊 二人会」 | 好雪録

2012/8/29 浜松町かもめ亭「月亭八天・桂吉坊 二人会」

私は落語は、まったくと言ってよいほど聴かない。
だが、嫌いなわけでは、決してない。

これはもう、映画などと同じで、凝りだしたらキリがないことが知れてある。
現在ちゃんと見聴きするよう心掛けているものでも手一杯なだけに、これ以上の「色気」を出さぬよう自制している。

それでも、志ん朝が生きていたころ、寄席には折々足を運んだ。
彼が死んだあと、これまた亡くなった談志を聴いたのが1回。
その次がこの夜の会、ということになる。

「上方落語で夕涼み」と銘打った今回。
前座として木久扇の女弟子・林家扇の〈一目上がり〉(やたら急くあまりに滑舌が悪く、そこここのフレーズが江戸言葉のイントネーションを活かした「波」になっていない点は要注意)があり、続いて年功順に2席づつ。
吉坊の〈皿屋敷〉、八天の〈算段の平兵衞〉。中入後に吉坊〈花筏〉、八天〈茶屋迎ひ〉。
なかなかのヴォリュウムで、とても楽しんだ。

月亭文都を嗣ぐ八天はベテランの雰囲気充分だが、関東人の前で構えたか、ちょっと説明的。聴き手に対して腰が引けている。平兵衞など、この人物の持っているブラックで皮肉な味が八天自身にも潜在しているだけに、もっと突っ込んで、客に覆いかぶさる態度であって良いと思った。
この時だけ膝隠しに見台を持ち出した〈茶屋迎ひ〉(「茶屋ムカエ」だと現代読みだろう)は難しい咄で、大店の旦那を描いて最大の作〈百年目〉がこなせる噺家が脂気なしにサラリと流すネタだ。年増の藝子(一度「ゲイシャ」と言ったが「ゲイコ」ではなかろうか)の訳知りの色気が出ているのは何よりで、この人の老成したニンからすれば、今後はもっとこの咄が映る(=身について似合う)ようになるだろう。

吉坊には驚いた。

老成といえばこちらもそうだけれど、生真面目かつ堅いように見えながら亡き枝雀系統の乱調が感ぜられ※註(〈皿屋敷〉は雀三郎の演出と同じ)、フラの気配すらも漂う。
描写は的確。今回はニンからは遠いかと思われた相撲物〈花筏〉を存分にこなし、恰幅の良い(されど処世術は好い加減な)男たちを活写。〈皿屋敷〉のお菊に浪花千榮子のようなアッケラカンと下卑た底力があって、この、幽霊でありながら生命力が横溢しているという一種「矛盾のおかしさ」に、落語精神のある種の核心が宿っている。

手堅い基礎力に基づく硬軟両様の持ち味。その底にチラチラと見える、人間的に複雑な「業(ゴウ)」の陰翳。
吉坊のように、なかこう美事には揃わないものだ。

「他ジャンルにもちょっと浮気」というところだけれど、これから桂吉坊の咄はせいぜい追っ駆けて聴いてみようと思わせられた。

みなさんもどうぞ。
決して損はないですよ。

※註:勘違い。私が「雀三郎の演出と同じ」と思ったのは吉坊の〈皿屋敷〉ではなくて、八天の口演した〈茶屋迎ひ〉のほうだった。したがってこの部分を削除するが、「吉朝の弟子とはいえ吉坊の藝にも枝雀系統の乱調が感ぜられ、フラの気配もある」とする前後の論旨は変わりません。(2012年9月8日追記)

2012年8月29日 | 記事URL

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