2012/9/1 ミュージカル〈ミス・サイゴン〉の山崎育三郎 | 好雪録

2012/9/1 ミュージカル〈ミス・サイゴン〉の山崎育三郎

急に手に入った切符で、大入札留つづきの青山劇場〈ミス・サイゴン〉を鑑賞。
今期すでに5回目、である。

今回のカンパニーは新演出ということもあって、質量ともかなりの稽古を積んでいる。
キャスティングも今後まず見られない高レベルで、ひとつの「色彩」を打ち出すことに成功。
特に、狂言廻しとはいえ主役の風格を帯びる市村正親のエンジニアがシングル・キャストとして毎回ドン、と存在感を示している意味は大きい。同じく毎回出演の泉見洋平のトゥイ、木村花代のエレン、これまた優秀きわまりない出来ばえであり、キムを演ずる知念里奈、新妻聖子、笹本玲奈の3人も三様の個性を発揮して甲乙つけがたいものがある、とのこと(私は笹本キムのみまだ見ていないため「とのこと」としておく)。

今回のクリスは山崎育三郎。
私がこれまで見た回は毎回、原田優一だったので、本日のお目当てはダブル・キャストの片方、山崎クリスにあったと言っても過言ではないのだった。

で、その感想なのだが、ちょっと予想外に「よろしくない」。

これは、彼の藝が「よろしくない」のか。
または、あえて「よろしくない」クリス像を造形した結果なのか。

もしかすると、そのどちらも、なのかもしれない。

ミュージカル〈ミス・サイゴン〉のドラマとしての原作にあたるプッチーニ作曲〈蝶々夫人〉。
そこでクリスに該当するのは米海軍士官F.D.ピンカートンだが、愚かで軽率なテノール役はあまたのオペラにひしめいているとはいえ、およそピンカートンほど下らない、取りどころの一つもない馬鹿野郎はいないのであって、私は〈蝶々夫人〉という作品が好きなぶん、見るたびに聴くたびにこの最低な男が赦しがたくてプリプリ怒るのが常である。
それだけに、これは藝術の逆説というべきだが、「いかにもノータリンなヤンキー」として演じられ歌われては堪らない。録音で言うと、大昔のジーリ、あるいはゲッダ、(ドイツ語抜粋盤のある)ヴンダーリヒのような高雅な音色を持つテノール、またはベルゴンツィのように規格正しい藝の品位が備わった歌手でないといたたまれない。
オペラの場合、「演劇的に優秀な演出」がいくらもてはやされる現代でも、音楽として格調の低い、露悪的な演奏であってはならないと、私は考える。

だが、ミュージカルは、どうだろう。
こちらは、オペラと違って「これ」という規範性の希薄な舞台藝術である。
つまり、「善し悪し」の選択肢が格段に多く用意されている、と見るべきなのだ。
さもなければ、高度な声楽的修養を積んだわけでもないグレン・クローズが、歌唱至難な〈サンセット大通り〉のノーマ・デズモンドに扮して一代の名手たる賛辞を受けたことは説明できないのではなかろうか?(実際、彼女のノーマは至藝である)。

話が逸れた。
育三郎に戻そう。

断っておくが、私は舞台人としての彼が好きなのである。
先日の、色々な意味でちょっと恥ずかしい韓流ミュージカル〈コーヒープリンス1号店〉のような作品にまでわざわざ足を運んだのも、そのためである。
井上芳雄、浦井健治といった東宝の覚えめでたいスターに続く存在として、この3年ほどで急速に頭角を顕わした彼の今後は、ちょっと注目に値するはずだ。

その〈コーヒープリンス〉と比べてまず思ったのが、「育三郎の声って、こんなに詰まってたかな?」という疑問。
ハッキリ言うと、発声が悪い(ように聴こえる)。
第1幕の聴かせどころ「神よ、何故?」の最後で、「思い出を胸にベトナムを離れよう~!今~♪」と音を延ばす部分、「い~ま~」と声帯が解放されず、そのため自然なヴィブラートが加わらずに、きわめて堅い、力まかせの音色に終わっている。
地声は良いのだが喉だけの力で歌う素人カラオケに、これはよくある現象である。

しかし、彼は東邦音楽大学付属東邦高等学校声楽科から東京音楽大学声楽科へ進み、舞台活動のため中退している。つまり、かなりの長期間クラッシックの声楽を修錬しているわけで、ベルカントの発声法には精通しているに相違ない。
井上芳雄や田代万里生や上原理生のような藝大出身者と同様、歌手としては正真正銘の「玄人」なのだ。

だからという訳ではないが、私は今回の彼の欠点である「歌の硬さ」を、彼の非力とばかり考えたくない。
もしかすると、「綺麗に朗々と歌うな」というような演出面での要請があったのだろうか?
リアルさを前面に出す今回の演出プランで、あるいはそうした要求が出されたかもしれないことは想像に難くない。
だが、原田優一のクリスはここで喉を開放して楽々と歌い上げていた。
したがって、この想像にも疑問符が付く。

この部分だけではなく育三郎の歌全般に伴う声音の閉塞感、声の延びの悪さは、歌としてあまりよろしいものではない。
先述したオペラほどではないにもせよ、ミュージカルだって歌芝居。
「演劇的真実を追求するために音楽性を犠牲にする」ことは、やはり禁じ手だろう。

それと、山崎育三郎に感じたもうひとつの大きな疑問は、クリスとしては熱演なのだが情が足りず、時として冷たく、無責任にさえ見える点。

確かに、この作品は救いがない。
「キムがなぜ死ぬのか」を論ずるだけで、相当の長文を費やさねば評論はできないほど、〈ミス・サイゴン〉は〈蝶々夫人〉を乗り越えるかたちでよくよく考えて作られている。

夫婦別れする気などさらさらないクリスとエレンの二人にとって、「過去」を引きずるキムは邪魔者以外の何者でもない。
したがって、最後のキムの自殺は、身も蓋もないことを言えば、「厄介な人が自分でいなくなってくれて、よかった」のだ。

自害の直前、キムの子・タムをエンジニアが引き離し、父であるクリスに引き合わせると、クリスはタムに帽子をかぶせて引き寄せてやる。

ここが原田優一だと「わが子よ!ウェルカム!」という感じでかなり温かい。
ところが、山崎育三郎は笑っているのだが、彼の顔面筋肉の関係でか、ちょっと引きつり気味、いわば苦笑という感じであって、タムとの間に微妙な一線が生じている。

私はここで咄嗟にこう思ってしまった。
「ああ、タムはいやな男のところに引き取られたなぁ......」。

その直後に銃声一発。キムが倒れる。

優一の場合ここからは一瀉千里、3年の歳月を瞬時に跳び越えてサイゴン陥落前の2人に戻り、キムに真率の愛情を注ぎつつ、断末魔の「妻」を抱き締めて号泣。
「おいおい、エレンはどうすんのよ?」と思わざるを得ない側面はあるものの、これはこれで芝居の一真実。予想しなかった現実を前に、打算など交じる余地のないその場の真情に原田クリスは生きている。つまり、絶望の悲劇のどん底にありながらも優一の扮するクリスには、死にゆくキムに愛と至誠を捧げて慟哭する一点において、確かに「救い」がある。

だが、育三郎はここで優一に負けない熱演、男気を見せているものの、先ほども漏らしたように、「とっても悲しい、が、でも、仕方がないかな、キムが死んでくれて......」というような乾いた感慨のほうを、私は感じてしまう。
優一と比べると、なおさらのことである。

そして、育三郎のこの「乾いた感慨」は第1幕からずっと持続する問題であって、たとえば現実の場面としてキムとクリスが最後に触れ合う愛の二重唱「世界の終わる夜のように」。
私は情けないことに、こらえきれずにここで落涙するのが常。
ここは〈蝶々夫人〉第1幕の最後を飾るピンカートンとバタフライの長大な二重唱(※註1 )に該当する名場面だが、さまざまな意味でともに追い詰められたキムとクリスとによって歌われる甘美な旋律は、"Last Night of The World"そのものの終末感と閉塞感によって聴く者の心をヤスリで削り取るような力を秘めている。
ここで育三郎のクリス(※註2)は熱唱ながら、「米兵に扮する自分を外から見ている感覚」というか、表面的には泣き節ではあるものの根本的にどこかよそよそしく、乾いているのだ。

※註1:ここに挙げた1939年録音ベニアミーノ・ジーリのピンカートン、トティ・ダル・モンテのバタフライによる全曲盤からの抜粋は歴史的名演で、ヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレスマリア・カラスやレナータ・スコットが歌った全曲盤とともに私の愛聴するひとつである。
※註2:この時期はまだ歌稽古の初期だったせいか、山崎育三郎は最後に近く「夢、もういらない」を「夢、ただ迷う(?)」と間違っているのはご愛嬌である。

繰り返すが、私は育ちゃん、三郎くんが好きなのである。
したがって、なろうことならば「贔屓目」で見たい。
だが今回の彼のクリスは、やはりどう見ても、どう考えても、「冷たく自己中心的なクリス」に思われてならない。

育三郎は、人間的には温かい男だ。
この日のカーテンコールでは市村を中心に挨拶があり、予定になかった新妻と育三郎にもマイクが回されて両人ともかなり慌てていたが、最後はタムを演じた加藤憲史郎が指名された。
さすがに5歳、一瞬、どうしてよいやら分からなくなるかな?と思わされたが、咄嗟に育三郎が身を屈めて、憲史郎クンの耳元で親しげに何か囁いた。彼は育三郎に言われたとおりにだろう、「ありがとうございましたッ!」と元気に叫んで満場の喝采を浴びた。

とってもステキな、心温まる光景だった。

自身挨拶で言っていた「大好きなこの作品の日本初演の6歳の頃から、舞台収録のCDを聴いて育ちました」との育三郎の言葉に偽りはあるまい。
そこまで作品を愛し、共演の子役にまで優しい心づかいを示せる彼が、「いやな男」であるはずがないではないか。
山崎育三郎は、やはり私にとって大切な舞台人である。

だが。
私が彼のクリスに感じた根源的な違和感。冷たさ。
また、音楽的には決して快感とはいえない生硬感。

それはいったい、どこに起因するものなのだろうか?
役者としての魅力と、演技・歌唱の有効性と、ある意味で齟齬をきたしている山崎育三郎のクリスを、われわれはどう評価すべきなのだろうか?

この日の育三郎に強く感じた「よろしくない」印象。
これが彼の藝術的な限界、役者としての欠点に繋がらないことを、私は強く願うばかりだ。

2012年9月 1日 | 記事URL

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