2012/9/16 清水寛二×西村高夫「響の会」 | 好雪録

2012/9/16 清水寛二×西村高夫「響の会」

本日は銕仙会の既に中堅、いや中軸といっても良い年配になった、清水寛二・西村高夫が共催する「響の会」で、清水の〈楊貴妃 干之掛〉と西村の〈望月〉を見た。

23回を数える当会は、今回でひと区切りとのこと。
来春の3月30日には「第37回研究公演」と銘打ち、2人の大学時代の師である山本順之を迎えて2人が地謡の軸に坐る〈木賊〉が期待されるが、双方還暦を迎えるのを節目に定例の会としては中仕切りということになる。

清水も西村も、早稲田大学の学生サークルからプロの道に入って、観世寿夫・観世静夫の厳しい薫陶を受けた。こうした出自の能役者として最も顕著な働きをしている人材である。
発会以来、定点観測のようにして見続けてきた私も、色々な意味で感慨が深い。

さて、私が感心したのはパンフレットに掲載されていた一文「響の会について思うこと 九世観世銕之丞」である。
これは「響の会」のある意味で苦難の道のりを端的に指摘し、その担ってきた意義を指し示すもの。能を取り巻く現況について銕之丞の把握はまことに精確である。
一部をここに抜き書きしたいと思う。

両君(註:清水寛二・西村高夫)は所謂寿夫先生最後の弟子で、私と修業時代を共有する世代です。寿夫先生の目指した高い志ある演能活動を継承し、今日の若い世代の役者まで伝えてゆきたいという理想は、銕仙会のメンバー誰もがもっている「強い思い」です。

しかしながら多くの現実問題に直面し、また共同幻想的な夢を仲間と分かち合えない雰囲気がある現代社会は、その「強い思い」を一方的な「思い込み」と捉え、不必要と棚上げしてしまいそうな空気があります。「響の会」の紆余曲折もこのような空気と無関係でないような気がします。

昨今の日本文化の現状の中で正々堂々と、そして全て普及のためのボランティア活動みたいにならずに無理なく「能が良いものである」という主張をしてゆく爲には、とにかく質の高い、そして面白い能を舞ってゆく他に道はありません。多くの人にそれを納得してもらわなければなりません。

「共同幻想的な夢を仲間と分かち合えない雰囲気がある現代社会」において「『強い思い』を一方的な『思い込み」と捉え、不必要と棚上げしてしまいそうな空気」があるとは、まさにそのとおり。
世代ごとに分断されタコツボ化し、「自分が全て」とする独善が個性の主張と履き違えられている状況は、古典藝能の世界のそこここに指摘できよう。

「響の会」とは、舞台を共有することによって役者と観客とが「響き合う」ことを期待した命名だった。
清水、西村の両人には、今後もたゆまずに「響き合う」対話を舞台上から発信してほしいと思うし、それを虚心に聴き留める耳目を持ち合わせる観客を地道に開拓していってほしいと願うばかりだ。

2012年9月16日 | 記事URL

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