2012/12/26 勘三郎本葬逮夜 | 好雪録

2012/12/26 勘三郎本葬逮夜

明日12月27日、たまたま私の40代最後の誕生日、築地本願寺で十八代目中村勘三郎の本葬が執り行われる。

私は本日午後から大阪に下り、明日まで続けて今期最後の〈ミス・サイゴン〉を見る。
すでに8月の前売開始前から押さえて貰ってある席。一度確保を願ったら決してキャンセルしないのがこの道の仁義である。
明日は勘三郎を心で見送ることにする。

たまたま不思議の縁を得、この「好雪録」12月5月の条、意を尽くした追悼文とも言われぬ怱卒の拙稿を、小日向遺邸の霊前にお供え頂いたという。
まことに、ありがたいことである。
が、やはり、口惜しいことである。

「勘三郎が、死んだ」と心に思うたび、今もって恐ろしい喪失感に苛まれる。
このことは恐らく、今後も長きにわたって変わるまい。

清少納言が仕えた皇后・藤原定子は、長保2年12月15日(ユリウス暦1001年1月13日)に、第三子出産に伴い崩御。夫君・一條院は晩年不遇の定子を深く愛していた。その定子の詠み遺した肺腑をえぐる辞世の3首が『栄花物語』に記されて、うち1首「夜もすがら契りしことを忘れずは戀ひむ涙の色ぞゆかしき」は『百人一首』の原型『百人秀歌』に藤原定家によって採られている。

これに対する一條院の返歌が『後拾遺和歌集』に収録されている。
最愛の妻の葬儀であっても天皇の立場では臨席できない。当夜は雪。一條院は氷の如く冷え入る宮中・清涼殿でひとり、白雪に埋もれた鳥邊野の斎場に思いを馳せ、こう詠んだ。

  野邊までに心ひとつは通へどもわがみゆきとは知らずやあるらむ

たまさか、教場の講義でこの歌に触れる時ですら、私は涙を堪えきれない。

一代の賢帝とも仰がれる一條院の御製を引き合いに出し奉るのは畏れ多き次第ながら、亡き勘三郎に寄せて「わがみゆきとは知らずやあるらむ」の心を抱く人々は、明日はきっと全国・全世界に数知れずいることだろう。

2012年12月26日 | 記事URL

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