2012/12/5 嗚呼、十八代目中村勘三郎...... | 好雪録

2012/12/5 嗚呼、十八代目中村勘三郎......

何を口にしても、味がしない。
勘三郎が死んでしまった。

歌舞伎界この50年で最大の、取り返しのつかない損失だと、私は思う。

先代團十郎の早世を重ね合わせる人もあるだろう。
だが、先代成田屋は、何よりも人気と存在とが惜しまれる「花」だった。

亡き勘三郎(もう、こう言わねばならないのか......)は、進取の人とはいえ、歌右衛門や先代勘三郎などが身をもって示した「古典」の価値をよく知り、それを心から畏敬し、みずから身をもって示す力のある人だった。
つまり、伝承藝術に欠くことのできない、優れた中継者だった。
その意味で、いま彼に死なれたのは歌舞伎の古典性にとって取り返しがつかない損失だ。
「先代團十郎の死」の比ではないと、私は思う。

歌舞伎の古典性。
私が歌舞伎に興味を抱き、劇場に毎月足を運ぶ価値の最大と考えているのは、その一点への興味である。
役者にとっても観客にとっても、先人の価値を正確に知り、自らそれに近付き、乗り越える志操なくして、古典性がどう保てよう。
勘三郎ほど、その思想と技藝とを具えた役者が、その世代でほかにいただろうか?
コクーン歌舞伎や平成中村座や野田秀樹・串田和美と組んだ仕事に注目するあまり、「勘三郎が仰いだ古典性」に心付かぬようでは、志半ばで早世した故人が浮かばれない。

歌右衛門直伝の玉手御前がもう一度見たかった。
踊りの手が今後いよいよ冴えてゆくのをこの目で確かめたかった。
2月の絶品〈鈴ヶ森〉を、今しみじみと心に思い浮かべる。
「われらが古典歌舞伎」は、彼をもって終わってしまうのか。

残念で、悔しくて、怒りにも似た心持ちである。

「新しい歌舞伎座の舞台に立たせてやりたかった」、どころではない。
「新しい歌舞伎座は勘三郎のための小屋だった」のだ。

六代目菊五郎死去の第一報に接して、初代吉右衛門は「馬鹿野郎!大痛恨事だよ......」と言い捨てたという(千谷道雄『吉右衛門の回想』)。
本当に、大痛恨事としか言いようがない。
明治・大正生まれの名優たちの謦咳に直接接し、その技藝をわが模範とし、それに近づこう(彼は還暦を過ぎたら強固に古典回帰するはずと私は予期していた)とする志があり、それを可能にする腕があったのは勘三郎だったと、私は思う。

あの、能のように厳しく隙がなく、限りない柔らかみのある〈鈴ヶ森〉。
当代吉右衛門と勘三郎のほか、いったい誰に成就できただろうか?

歌舞伎を取り巻く言説は、勘三郎の本質を確かに見定めていただろうか?
世間はもっと、古典主義者としての勘三郎の可能性を見るべきだったと思う。
それを見定めようにも、天は勘三郎に充分な体力と命数とを許さなかった。
口惜しい。くやしい。

虚弱に見えた歌右衛門は、勘三郎と同年代には徹夜マージャンに明け暮れながら一興行に〈道成寺〉を踊り政岡を勤め、月替わりで新作や復活狂言を準備した。
それを思えば、歌舞伎の古典性の追求と、大衆化・現代化と、勘三郎ならば何をやっても許されたし、将来もそれがきたはずだ。
だから私も、個々の出来ばえや評価はともあれ、彼の仕事はすべて受け止めた。やってはいけない、やめたほうが良い、と思うような仕事はなかった。
たとえどんな下らないことでも、彼が必要とあらば何でもやってほしかったし、何を置いても見に行くように努めていた。

惜しいかな、彼には己が業を全うする体力と命数が伴わなかった。

運命というものは、背負うべきではない人が背負おうとしたって、背負えるものでもない。
勘三郎は歌舞伎の運命を背負いかけていた。
彼自身は絶命の瞬間までギリギリの絶所に身を置いて、歌舞伎を背負うとし続けて、死んでいった。

潔い。立派だ。

先代勘三郎の子、六代目の孫という自覚、また勘三郎という名がそうさせたのだろう。
人工肺で呼吸もようできず死んでいった最期を思うにつけ、可哀想で可哀想で、涙が流れる。

十八代目中村勘三郎の無念の胸中を察する人は、彼の志操の高さと心身を擲った求道の人生を偲び、今日一日、ただ慟哭することで故人に捧げる追慕の念を示すがよい。

私自身、静かにそうしたいと思う。

2012年12月 5日 | 記事URL

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