2012/12/9 山本東次郎さん「人間国宝」認定と狂言の明日 | 好雪録

2012/12/9 山本東次郎さん「人間国宝」認定と狂言の明日

以下、この日の「山本東次郎さんの人間国宝認定を祝う会」で配付されたパンフレット掲載の拙稿を転載する。(2012年12月16日追記)

山本東次郎さん「人間国宝」認定と狂言の明日      村上 湛

同じ志を寄せる周囲の人々にとって、「待ちに待った」とはこのことだろう。
山本東次郎さんが重要無形文化財保持者(芸能の部・狂言)の各個指定、いわゆる「人間国宝」の認定をこのたび受けられることになった。七月二十日付の新聞各紙に既報。十月四日付『官報』には文部科学省告示第百六十一号として掲載。十一月三十日には無事、認定書交付式も済んだ由である。
山田流箏曲の山勢松韻さんと話していて、「東次郎先生、もうとっくになっておいでだとばかり思っていたんですよ」と、ご自身も「国宝」の山勢さんが半ば慨嘆されていたのが印象的だった。東次郎さんの舞台を知る一般の感想もまた、そうであるに違いない。

藝界の栄誉はめぐり合わせだ。名人上手がひしめく時代にはいくら優秀でも何かの拍子で世俗的に日の当たらぬ役者が出るのは致し方ないし、分野によって注目度や優遇度が異なるのも避けられない。東次郎さんの認定で能楽界における狂言方の「人間国宝」は総計四人になる。これに対してシテ方は三人。古来、シテ方が絶対上位とされ続けてきた能楽界の「常識」に照らせば、この「シテ方と狂言方の逆転現象」は、実は驚くべき大事件である。
この背景には、戦後六十年の間に狂言が積み重ねてきた、役者たちの地位向上と技能修錬の歴史が横たわっている。
たとえば、東次郎さん最高の当たり藝のひとつ〈花子〉。
同じく横綱格を誇る難曲でも〈釣狐〉はいわば乗り越えることに意義がある嶮しい分水嶺であるのに対して、〈花子〉はただ通過すればよい演目ではない、役者たちがそれぞれたどり着くべき人生の目標に据える究極の花園である。当然、〈花子〉のシテが「当たり役」と言われる役者など、大抵尋常なことでは出るはずはない。
ところがこの十年以内に、山本東次郎、茂山千之丞、野村萬、野村万作、錚々たる四人もの名手がいずれも個性異なる最高の〈花子〉を主演した。これらすべてを見て私は、もう、ただただうなる以外になかった。この至難を極めた名作の名演がこれほど立て続けに実現するとは、狂言六百年の歴史の上ではじめてと言っても、恐らく過言ではないからである。
また、それとは別にこんなことを考える。
真の意味で不世出の役者だった山本則直をはじめ、四世茂山忠三郎、先代野村又三郎、こうした近年の物故者たちのことをいま私は改めて懐かしく思い出す。彼ら皆それぞれ、掛け替えのない固有の藝を立派にうち樹てた名手だったではないか。私たちは日常、こうしたすばらしい役者たちが攻守ところを変えつつ支え合いぶつかり合うスリリングな舞台を、当たり前のように楽しみ続けていたのだ。早い話、東次郎の主、則直の武悪、則俊の太郎冠者、かくまで心技ともにうち揃った〈武悪〉の名演が血を分けた兄弟間で実現してしまう「驚異」は少なくとも明治維新以後、もしかすると室町時代以来、はじめてだったのである。みなさんご記憶のとおり、これはもう、こののち決して見られない至高の〈武悪〉だ。
「狂言方の人間国宝四人」とは、このような狂言界古今未曾有の活況のあらわれなのである。そしてこれを、明治以降の東京で大蔵流の実質を支えた狂言方山本東次郎家の慶事として考えれば、他家から入り立派に養家の名跡を継いだ亡き三世の戦中・戦後、狂言と能の普及へ捧げた(先代東次郎は学校回りの地方公演では狂言方でありながら能〈羽衣〉の天女にさえ扮して見せたという)刻苦の生涯に播かれた種が花と咲いたものと捉える以外、ない。一九六四年に数え年六十七歳で「早世」した三世東次郎に厳しく仕込まれた当代は、三世の没後四十八年の今年「人間国宝」と認められて、故人の霊前に最高の手向けをなした。
先代を知らぬ私でさえ、胸がいっぱいになる。

先父三世から、当代東次郎さんがどのような心の籠もった厳格な稽古を受け続けてきたか。それを東次郎さんがいかに正面から受け留め続けてきたか。これらエピソードのいくつかはたびたび紹介されてきたから、知る人も多いだろう。
私が印象的なのは、幼少の東次郎さんが先代不在の楽屋にいた時の逸話である。
舞台で進行中の間狂言のカタリだかが、ふと途切れた。共に居合わせたのは青年時代から兄事し敬愛していた亡き観世壽夫。まだ青年だった壽夫は幼い東次郎にすぐさま「ほら、付けなきゃ(=絶句を補ってやらなきゃ)ダメだよ」と言った。だが、小学生の子供が狂言の何から何まで覚えているはずもない。当然、東次郎さんはいつもの親しげな調子で「無理だよ」という意味のことを答えた。
すると、普段は気安く優しい壽夫が態度を改めた。
「そんなことでは、いけない」。
家を継ぐべき者へ対する心得を説くかのように、厳しく諭したという。
能役者にとって技藝の錬磨は最も大切である。だが、本当のプロにとってもっと大切なのは「藝を日常にすること」、つまり、ことごとく何でも知り、かつ、その知識をすぐさま身をもって示せることである。
東次郎さんと同年の和泉流宗家・和泉元秀は早くに亡くなったが、どんな演目でも無本で稽古をつけたし、囃子事にも精通していた。現存のシテ方でも、梅若玄祥さんにせよ塩津哲生さんにせよ後進の指導に責任的な立場にある人は、こと能の実技や習事あるいは過去の舞台に関してはいかなることをいつ問うても「ちょっと待って下さい」とは言わない。すぐさま、端的に答えが返ってくる。
「藝を日常にする」とはこうしたことである。東次郎さんのこなす舞台の裏側は、同じ心掛けで絶えず磨かれているはずである。闊達でありながら神経が行き届き、それでいて気の狭さを感じさせない藝風は、それをよく反映している。

東次郎さん世代に続く狂言方を流儀・藝系の別なく見渡す時、その将来は決して明るくはない。具体的に考えよう。能で大切に扱われる演目の間狂言、〈姨捨〉あるいは〈定家〉〈芭蕉〉、いま役を振るとなれば「人間国宝」として舞台に立ち続ける狂言方の誰にしようか贅沢な悩みを抱くだろう。
が、十年後、二十年後も同じように人材に恵まれているだろうか?
現況を知る限り、それは絶望的である。
まだしも本狂言ならば役者の表面的な個性で「キャラ立ち」もし、「お笑い」に類した滑稽演藝としても大衆の注視は集めやすい。しかし、叩き上げた役者の地藝と精確なカタリの技法が要求される間狂言でそうはゆかない。そこでは勢い、前述の「藝を日常にする」ことそのものが問われるともいえる。肝腎のカタリの前、能の進行中に幕から出、一ノ松の狂言座にピタリと坐して動じない姿の美しさで勝負は決まってしまう。間狂言のしこなしで狂言方の価値はハッキリと推し量られる。先代も恐らくそうであったように、当代東次郎さんほど、カタリの内実はむろんのこと、こうした舞台上の目立たぬ挙措進退が美事な役者はない。
後進はこれをただ範と仰ぐだけではいけない。積極的にわがものとする気概を持ってもらいたい。それが、近い将来必ずや到来するであろう「狂言のレベル低下」に歯止めをかける、唯一の予防線なのである。

「人間国宝」の大切な責務のひとつは勝れた継承者の訓育にある。山本家には幸い、若い人材が多い。その一人ひとりがハッキリした自覚を具えて、四世山本東次郎の藝を吸い尽し奪い取る勢いを身をもって示し合う日が来ることを、私は切に願いつつ鶴首して待ちたいと思う。                 

2012年12月 9日 | 記事URL

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