2013/2/4 十二代目市川團十郎逝去 | 好雪録

2013/2/4 十二代目市川團十郎逝去

九代目市川團十郎が〈酒井の太鼓〉を演じた時の発句「節分の太鼓にあたる豆の聲」を團洲みずから扇面に書いた横物の軸を所持している。骨董に造詣の深かった女婿・三升の箱書きだから、贋物の多い九代目の筆の中でも、まあ信用できる品かと思う。毎年の節分には床に掛け、弟子の七代目松本幸四郎が若松を描いた尾戸焼の筒茶碗で薄茶を点てて祝う習いにしている。

昨夜もこれを眺めて一服を喫し、病臥の成田屋を思って暗澹としつつ早く褥に就いた。
明けて立春の朝を待たず、十二代目市川團十郎はこの世を去ってしまった。

並の人間ならばとうに死んでいておかしくない大病を得、文字どおりこれまで苦闘の限りを尽くした團十郎である。勿体ない、口惜しい、という思いは尽きないけれど、今は早、冥福の安らかなることを祈るばかりだ。

確かに、つたない役者、決して巧みではない役者だった。
私は基本的に、「上手い役者」が好きである。
だが、團十郎だけは別格だった。
ただ一つ挙げるとすれば、象徴的な意味で助六だろう。こればかりは当代、誰が出ようと十二代目團十郎に代わることはできない。たとえ年相応の海老藏でさえ、である。

私が彼の助六を初めて見たのは1985年4月、十二代目襲名披露の初月だった。歌右衛門の揚巻、十三代目仁左衛門の意休、名優揃い空前絶後の好配役に挟まれても十二代目團十郎は決して奢らず、それでいてすべきことは堂々とし尽くした立派な舞台だった。
一昨年の歌舞伎座閉場の折もそれに比べて何ら衰えたものではなかったが、これは襲名時の助六がそれだけ立派だった証拠である。

当時の團十郎の音声を確かめると良い。彼の宿痾だった口跡の悪さは否定できない。
だが、その後の彼の精進はどうだろう。
持ち前の声そのものは変わりようがないから、開口を工夫した。他人ならばこうはすまいと思われるほど母音をハッキリと、咽喉を開放して一言一言を丁寧に明晰に発語するよう心掛けた。その成果だろう。近年の成田屋のセリフは、ただ聞いているだけで精確に書き取れるほど明瞭なものになっていたではないか。
これは、実は、大変な努力である。

私は、十二代目團十郎という役者は、決して退歩せず歩み続けた役者だったと思う。
誰でも、ちょっと偉くなりキャリアができると、「老成」という美名のもとに歩みを止めてしまうことがある。そうすると結果的に、その役者は時の流れの中で流され、必然的に「退歩」してしまうものだ。退歩しなかった團十郎は、人の気付かないところでずっと努力し続けてきた刻苦の人である。
その努力や労苦を決して人に晒さない、真の意味で強い男だった。

昨年の1月、日本経済新聞の夕刊で短期連載「歌舞伎に転生した能・狂言」を担当した際、掲載する舞台舞台は「これ」というもので私なりに気をつかったつもりだ。
亡き歌右衛門の〈娘道成寺〉〈關扉〉を除き、現存歌舞伎役者の主演として2枚。團十郎の〈勧進帳〉と勘三郎の〈身替座禅〉を選び、本人の諒解を得て使用した。私にとって将来ともに信用できる歌舞伎役者の双璧だった。

その2人とも、わずか1年のうちに、しかも歌舞伎座の新装を待たず死んでしまった。
私は、私たちは、これからどうすればよいのだろう。

春立つを待つ節分の宵に十二代目市川團十郎つひに死す。拙吟悼句に曰く、
  紅梅の紅きはまりて散れとこそ

2013年2月 4日 | 記事URL

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