2013/8/13 中村勘九郎の〈鏡獅子〉再見 | 好雪録

2013/8/13 中村勘九郎の〈鏡獅子〉再見

今日もお決まりの暑さだが、夜に入って風が渡り、だいぶん助かるのはありがたい。
歌舞伎座第1部を見る。〈野崎村〉に〈鏡獅子〉。
とても盛夏から残暑の狂言立てとは思われない。

さて、亡き勘三郎が仕事盛りの良い汗を流した8月の3部制興行。
旧盆の新盆に亡父追善の心だろう。今月の〈鏡獅子〉は月前半を勘九郎、後半を七之助、中村屋兄弟が踊り分ける趣向である。
初日に続けて最終日の今日、勘九郎の舞台を見た。

結果として言えば、まだまだ。まだまだ。
今月の勘九郎について「すでに当たり藝だ」とか、「これ以上の〈鏡獅子〉はない」と褒める向きもあるようだが、本当に本気でそう見ているのだろうか。

藝を評価する際、その時々で価値基準が変動し評者自身が変節する相対主義は無意味、ではなかろうか。
「昔に比べて藝のレベルが落ちたから今は『あるもの』で辛抱し、自ら過去に接した名演はなかったことにして、現今の上演間でのみ比較し無闇に絶賛すればそれで済む」というものではあるまい。

亡き勘三郎でさえ〈鏡獅子〉はとうとう完全にモノにはできなかった。
「勘三郎こそ〈鏡獅子〉の担い手だったし、そうなり得たはずだ」との信念と無念から、そう思う。

〈鏡獅子〉という舞踊の根源的な至難性。
「勘三郎亡きあと、勘九郎こそ〈鏡獅子〉を担うべき現在唯一の踊り手である」との期待。
この双方から鑑みて、私は今月の〈鏡獅子〉を「まだまだ、まだまだ」と思うのだ。

〈鏡獅子〉は前シテのもの、である。
名人・九代目市川團十郎が舌なめずりしながら仕上げたに相違ない、玲瓏玉の如く端正な、一点一角ゆるがせにできない厳格な振リで構築されている。
むろん、逃げ手は幾らでもある。が、それではこの踊りの真価は決して立ち顕われない。
衣装を着け、鬘を着けてはいるものの、ほとんど生一本の身体能力が露呈する演目。
〈鏡獅子〉の前シテは、われわれにとって「踊り」の真骨頂を見て取るに最適の歌舞伎舞踊だと思う。

93才の小山三の「お手引き」に手を取られて出てくる勘九郎。
「まだまだ」と感じた理由はいくつかある。
主な点は、いちおう3点。

1)「振り」を単体として丁寧に扱うあまり「振り」と「振り」とが分節化され、「幾つかの振りが
 連鎖して小節をなす大きな動き」が不足している点。
2)腋の締めようが甘く、動きが放恣になりやすい点。
3)腰高の癖が充分に矯正されないので重心が落ち切らず、身体に「まだ使い残している」
 余白が見える点。

1)について。
たとえば、「お手引き」に引かれた出。
勘九郎は初日も今日もうつむき気味に、足取りもおずおずと出て、引っ込んだ。
出る。立ち止る。引っ込む。
またたく間の一連の動きだが、勘九郎はそれぞれの間にわずかな息継ぎができる。

亡父はもっと、キビキビと速かった。

ただ速いのではない。
一息に出、舞台でちょっと立ち止まり、すぐ取って返すイキが一息だった。
つまり、亡父の彌生は、舞台上手の襖から「出る」瞬間に、もう、「引っ込む」までのイキを籠めていた。
私が気になったのは、勘九郎はここで、亡父のようにイキが詰んでいない点である。

ここは亡父の行き方が文句なく良い。
「彌生はイヤイヤ出されるのだから、出た時から引っ込むことばかり考えているのだ」という心理分析ではない。そんな「説明」はあとから幾らでもつくものだ。
要は、「連鎖した動きが分断されず、一つながりのイキで貫かれてこそ、踊り全体の中に大小幾つもの波が生じ、そこに多彩で複雑な『物語』が現出する」という、舞踊特有の構造性に関わる問題である。

別の例で言えば「川崎音頭」の初め、「濡れにぞ濡れし鬢水の」。
A・髪に手をやり→B・立ち身のまま→C・わずかに息を詰め→D・ひとつ回り→E・身体を後ろに反らしてキマル。
きわめて大雑把に分記すれば、こうなる。
勘九郎は、それらの振り一つひとつは丁寧である。が、A~Eの振り(もっと細分化して見ることもできる)が、振リごとに分節化している。
良く考えれば分かるが、AはEのキマリのために用意された始発の振りである。。
A→Dはその過程であって、個々が均質の「意味」を持つものではない。
つまり、A→Eは一息のイキが繋がってこそ、全体でひとつの情意を示すだろう。
A、B、C、D、Eがそれぞれ単立で「意味」を示す時、その全体性はかたちを見せない。

個々の振リを丁寧に扱うのは結構。むろん、そうでなくてはならない。

だが、個々の振りが目立つ半面、「全体」が立ち顕われないとしたら、それは個々の振りが自己目的化している、ということになる。
それは大きな意味での舞踊表現というよりも、ミニマムな自分自身への「ダメ出し」に近づきはしないだろうか。

勘九郎のこの点、実は大変大きな今後の問題なのではなかろうか。

2 )について。
彌生の踊りはじめ「天の浮橋渡り初め」のあたり。
衿を正した後、両の振袖をちょっと扱う振りが重なる。ここで亡父は、まるで振袖が身体に纏わり付くようだった。これは腋がよく締まっていたためである。
勘九郎は、どうも亡父ほどには見えない。ひょっとすると振袖の生地や仕立てが違うのではないか、と思ったほどだ。

後段、太鼓にノッた踊り地のあたりで、勘九郎は踊り込んでゆくうちに着付の身八ツ口から下腕部や素肌が何度か覗いた。女形舞踊で、これは極力避けたい。
腋が締まり、肩を落として肘を上げ過ぎなければ、身八ツ口から素肌が覗くことはない。

そう言えば、「道理御殿の勤めぢやもの」で舞台上手を向いて座ったまま朱の服紗を捌き左手に載せる。ここで勘九郎の座姿が平板に見える。
ここは腰を引き、肩と肘も後ろに引き、背筋を正し、顔は顎をグッと引いて、上体をキチンと収めるところ。
何でもないように見えてキツイ姿態である。

亡父はそのキツさに堪えて、実に規格正しい座姿を見せていた。腰がグッと引け、胸から上が前にせり出すようだった。
その姿が平板に見える勘九郎は、腰や肩にタメが不足しているのではないか。
腋の締めようが甘いということも、ここにちょっと関わるだろう。

3)について。
これは全体に言えることだ。
亡父より脛が長い分、勘九郎には苦労も多かろう。実際、腰を落としきれずに〈鏡獅子〉を踊ってしまう役者だっている。それに比べれば勘九郎は実によくやっている。

だが、勘九郎にはさらに上、最上位を目指して欲しい。

映像で見る六代目菊五郎の、衣裳がいかにも重くたっぷりしているように見えるのは、特別な衣裳で重さを演出しているのではなく、重心がドッシリと低く据わっているためである。
逆に、〈鏡獅子〉を踊って衣裳が軽く見えるのは、動きが粗いためである。

女形舞踊の厳格な枠内で処理しなければならないからこそ、彌生の振りは至難なのだ。
腋を解放し、腕も肘も上げ放題、延ばし放題に踊ったら、特段難しいこともない。

亡父はそれに挑戦していた。
上記、1)~3)の問題点みな、私は亡き勘三郎の〈鏡獅子〉を見て学んだことだ。
亡き勘三郎は恐らく、初役時と再演時に先代からそれらを実地に学び、自ら実現しようとし続けたのだろう。
亡き勘三郎の〈鏡獅子〉を見るたびに、私は出来そのものにはまだ上があるとして完全には満足しないまでも、「ああ、良い教えを得ているなあ」と深く感心したものだった。

勘九郎の〈鏡獅子〉を見ていると、亡父のことがしきりと思い出される。
やはり勘三郎は、巧かった。
だが勘三郎の〈鏡獅子〉を見て「良い教えを得ている」と思ったように、勘九郎の〈鏡獅子〉を見てそうは思われなかった。
逆に、ひょっとすると、形骸化した外形が伝わっているのではないか、と危惧さえした。

ひとつ考えられるのは、父子ともに多忙に過ぎて、先代勘三郎が亡き勘三郎につけた稽古ほどの質と量を、勘九郎は父から受けていないのではないか、ということ。

もうひとつには、明治生まれの先代の古い歌舞伎の素養を受けとめた亡き勘三郎と、当代勘九郎とでは、「受けとめる」意識に差があるのではないか、ということ。

踊りというものは、知性の産物でもある。
ただやみくもに手数さえ懸ければ良いわけではない。

藝というものは人から人への産物。
ヴィデオの映像は決して媒介にはならない(能・狂言の稽古では、真っ当な役者ならぱ今もそんなものには頼らない)。

勘九郎には亡父の〈鏡獅子〉のイキと、細部の振りにとどまらぬ全体の語法とを思い返し、わが身に引き換え、次回は是非こうした問題を克服した向上の相を見せてほしいと思う。

その意味で、まだまだ、まだまだ、なのである。

後シテについては、白頭の振りようが細く鋭い。
もっと豊かさ、大きさを見せるためにはどうすべきか。

それから、振り終えた後すぐ幕にするのではなく、衣紋を調え、正面をキチンと向いて役者の顔になり、悠然と立ち身で決まってほしい。
「勘九郎ご苦労さん」ではなく、「お芝居が終わった」ように閉幕するのが本当だろう。
今や〈鏡獅子〉終結部の客席は個人後援会の会場のようになるけれど、それは役者が「素」を出し過ぎて万事に余裕がないせいもあるのではなかろうか。

2013年8月13日 | 記事URL

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