2013/8/21 奇禍一周年~「自分自身の身体をよく知ること」 | 好雪録

2013/8/21 奇禍一周年~「自分自身の身体をよく知ること」

最近はどうも出先から泊まりがけで帰ると、翌日はツカイモノにならず、困ります。

今日は終日スッキリ晴れやらぬまま溽暑、そのうえきわめて不順な天候。
午後から宵にかけて、拙宅上空では普段ちょっとないほど激烈な雷鳴が轟き遠近に落雷。
PCを起動させたままでは恐くなるほどだったので、仕事を諦めて電源を切って、ビールを飲んで昼寝してしまいました。

陽が落ちてから落ち着き、さきほどまで旧暦7月の望月の薄明かりが見えていたものの、いま9時半過ぎたあたり、またぞろゴロゴロと鳴り出した。

さて、昨年の筆記を見ると、路上で転倒し救急車で運ばれたのが1年前の今日
その時お助け頂いた方には後日、御礼を申し上げたのだが、滑って転ぶのは良くあることとはいえ、直後の処置を過てば老若を問わず命取りにもなりかねない。

私の体験で言うと、その直後しばらく「ただ歩くこと」に非常に気をつかい、さながら「薄氷を履む」思いがあった。
単に「恐い」というのではなく、足を運ぶ、歩くことに、普段どれほど心を配っていないか、という畏れの気持ち、とでも言おうか。

山本東次郎さんが言っておられた。
「しばらく外国に行っていてナイフとフォークの生活を余儀なくされると、帰国してすぐ、箸を持つ手の感覚に違和感を覚えます」。
これは「箸でさえかくあるに、まして常の稽古においてをや」という「藝談」ではあるのだが、それを敷衍して、わたしたちの身体にとって「あたりまえ」と思っていることが、実はいかに「あたりまえではない」か、ということでもある。

夏場の今ごろ、花火大会でもあれば街に浴衣の若者があふれる。
中でちょっとでも和装に興味を持つ者は、よりよく着こなしたいと思うはずだ。
これはもう、「コツ」だけの問題ではない。
着物を着て帯を締める経験をなるたけ多く重ね、生活上のいろいろなシーンに和服で臨むよう心掛けない限り無理である。
先日も歌舞伎座の〈鏡獅子〉寸評で述べたとおり、舞踊家の踊りより歌舞伎役者の踊りのほうが、巧拙は別にして安定感があるのは、本衣装を着け起居する機会が圧倒的に多いからだ。

でも、それは特別なことではない。
ただ普通に立つ、普通に座る、ことでさえ、「こうするもの」とシッカリ心得ていないと、なかなか「普通に」とはゆかないものだ。
電車の座席に引っ掛かるように足を延ばしきって「座って」いる若者。
足踏みも乱れむやみに靴を引きずってドタドタ音を立てて「歩く」若者。
どちらも、決して「普通に」座ったり、歩いたり、はできていない。

演劇や舞踊の批評の根本は「身体をよくよく見ること」だけれど、それは、最も身近であるはずの「自分自身の身体をよく知ること」から発する、とはいえないだろうか?
これは何も単純に、仕舞の稽古をしなければ能が分からない、バーレッスンの体験がなければバレエは理解できない、ということではない。

だが、しかし、そうしたことをも含め「自分自身の身体をよく知ること」なくして、他者の身体に深く思いを致すことはできない、のではなかろうか。

自分と他人と、どちらにもできること。
自分にはできて、他人にできないこと。
他人にはできて、自分はできないこと。

藝術としての身体表現に携わる玄人か、または全然そうではない素人か、どちらも区別なく、上記のことは必ず指摘できるだろう。
それほど、「自分自身の身体」というものは、常住「よく知らない」ものなのだ。

そんなことを、昨年の事故を思い出して、考えた。

転倒などもうコリゴリだが、「自分自身の身体をよく知ること」は、批評という営為に携わる限り終生怠ってはならない一事ではないかと、私は思う。

2013年8月21日 | 記事URL

このページの先頭へ

©Murakami Tatau All Rights Reserved.