2013/8/6 帝国劇場ミュージカル〈二都物語〉 | 好雪録

2013/8/6 帝国劇場ミュージカル〈二都物語〉

蒸し暑い一日。お定まりの夕立ちあり。終日執筆。夜は帝国劇場で本邦初演ミュージカル〈二都物語〉を見る。

この作品は2007年のブロードウェイ初演。脚本・作詞・作曲のジル・サントリエロはわが国でほとんど知名度がない。今回はフランク・ワイルドホーンの補曲が加わっている。
制作側は初演物とて昨年来、周到な宣伝を重ねてきたが、売れ行きは芳しくない。魅惑的なキャストにもかかわらず同様の事情だった昨夏の帝劇〈ルドルフ〉を思い出す。作品や配役の善し悪しを超えた、「日本のミュージカル興行と観客嗜好の抱える本質的な問題」がここにはあるだろう。

正面切って歌い上げる演技を際立たせない鵜山仁の演出は、「ミュージカル=歌芝居」というより「歌を伴った演劇」の側面を強調する感触で、これは比較的セリフの多い、芝居仕立ての作品の性格にも相応している。同時に、ちょっと物足りないのは、総体には魅力的な音楽なものの、ミュージカルらしい、あとに際立って耳に残るナンバーがない点。
もっとも、これは欠点というより作品の個性というべきかもしれない。劇場も帝劇のような拡散する大箱ではなく、観客がもっと集中して見られる日生劇場程度の規模の劇場だったら違っただろう。後述のように、歌唱力だけではなく演技力をも具えた練達の役者を多く揃えているので、もったいないことではあった。

ディッケンズの原作は名作と言えない。長大で「脱線」も多いものの、それがユゴーの『レ・ミゼラブル』のように巨大な渦となって物語を自律させてゆくほどの力は持ち合わせない。だが、その「隙」が、舞台化の際の脚色の余地に繋がるとも言える。原作では中盤(全3巻の内の第2巻第7章)に置かれる子ガスパールがサン・テヴレモンド侯爵の馬車に轢殺されるエピソードを第1幕後半に置き、そのあとで侯爵の寝所に父ガスパールが潜入してわが子の仇を打つ場を見せる(この刺殺の具体的な描写は原作にはない)ことによって劇的要素が増している、など。もっとも、原作を生かした部分でも、たとえば開幕冒頭、馬車からワイン樽が落ち、パリの貧民たちが路上に零れた酒を啜り飲む件など、ただ舞台を見ているだけでは何が何だかわからない箇所も随分ある。

シドニー・カートンの井上芳雄。チャールズ・ダーニーの浦井健治。一対の看板役をいま考えられる最適配役で帝劇競演とは豪華だ。ただ、昨夏の〈ルドルフ〉タイトルロールと同じく酒浸りの荒んだ生活感を伴うシドニー役は井上の本質的なニンではないので、真っ直ぐな歌唱は好感が持てるものの、むしろそれだからこそ些か役作りに無理が伴い、結果的に役柄がやせ細って見えた点は否めない。
原作を読めばシドニーよりチャールズのほうが「主役」なのは明らかだが、この作品では逆にチャールズのほうがいかにもパッとしない。終幕、薬で眠らされて牢獄から連れ出されて以降、浦井チャールズに何のしどころもないまま何となく終わってしまうとは、気の毒な役ではある。

問題はヒロイン、ルーシー・マネットに扮したすみれ。
地声は良く、美人で背も高く、華があるのだが、ともかくセリフとそこに籠められるべき心と、双方が粗い。また、人物の作りようがキツい。
愛情、貞淑、温雅、現在ではほとんど跡を絶った美徳であるにせよ、廃人になりかけた父、死に瀕する夫を一心に支え、救おうとする「貞女」ルーシーの役柄とすみれのニンとはかけ離れている。ハワイ育ちで日本語が不自由なのは気の毒だけれども、いまどきの普通の女性の地のまま、自分の感情だけで一方的に動いており、演技も場あたり的。何よりも、常に突っ掛るようなセリフで終始するので、受け身の立場で2人の男性から捧げられる「愛」そのものが、すみれの好戦的雰囲気によって弾き飛ばされ、行方を失ってしまう。

これは脚本の問題でもあろう。
今回の舞台では、シドニーとチャールズの男同士の関係、シドニーとルーシー、チャールズとルーシー、それぞれの男女の関係、これらが鮮明に見えてこなかった。

チャールズはいつ、なぜ、ルーシーに惚れ込んだのか。
ルーシーはなぜ、そんなに愛される美質をもっているのか。
シドニーはチャールズのことをどう思って「身替り」になるのか。

こうしたことが充分に書き込まれていない嫌いがある。
もっとも、大ナンバーとも言える美事な独唱曲があれば、その一曲の力で万事が解決できるのがミュージカルの魔力。が、そうした際立った楽曲がない以上、また、脚本に一定の限界がある以上、あとはもう、演出と役者の演技力で乗り切る以外ない。
その点、すみれ扮するルーシーの役柄が「悲劇の要」としてしっかりと立ち上がらなかったのは大きな問題だ。前述のすみれの持ち合わせる役柄との違和感が原因となって、井上、浦井、ともに彼女に対する演技の焦点が結べずそれぞれの独り芝居に終始、ルーシーを取り巻く人間模様が充分に立ち上がらなかったことが、今回の疑問の第一である。そしてこれは、鵜山の演出力をもってしても補完しかねることだったのではなかろうか。

周囲の役者たち、みな巧い。
濱田めぐみのマダム・ドファルジュは、何となく〈ジェーン・エア〉の「屋根裏の狂女バーサ」を思わせる怪演。もっとも、原作ではこんな思い詰めた動機に支えられた「怨みます」女(兄と姉をサン・テヴレモンド侯爵に殺され遺恨を抱く設定)ではなく、もっと単純に血も涙もない下賤で骨太の役である。それに対して橋本さとしのドファルジュは原作よりも理解ある善人寄りの役作り。
今井清隆のドクター・マネットは最後に原作のように廃人に戻らず、福井貴一のバーサッドもミュージカル版〈レ・ミゼラブル〉のテナルディエの如く、さまで嫌らしい極悪人ではない。宮川浩の墓掘りクランチャーは屈強な下人に相応しい汗と土にまみれたニンで、とても昔のマリウス役者とは思われない。
サン・テヴレモンド侯爵の岡幸二郎が「悪の華」とも言うべき嵌まり役。彼なら正直、この演目のどの役を演じても勤まるだろうし、逆に、この侯爵は彼にしか勤まるまい。出番は少ないがさすが、である。

と、色々述べたが、全体を見れば大一座でよく作り込んである作品。このレベルのメンバーでの再演はこののち難しいかもしれず、是非、一度は足を運ばれることをオススメする。
26日まで。今のところ、千穐楽以外は毎日席の余裕はあるようです

2013年8月 6日 | 記事URL

このページの先頭へ

©Murakami Tatau All Rights Reserved.