2013/8/8 劇団四季ミュージカル〈ウィキッド〉 | 好雪録

2013/8/8 劇団四季ミュージカル〈ウィキッド〉

晴天溽暑。畏友・富柏村散人の帰朝中とて夕食を共にし款語数刻。

昨日は汐留の電通四季劇場「海」でミュージカル〈ウィキッド〉を見た。
前回の東京公演、2007年6月から2009年9月まで通算789回を数えた初演のロングランを見ていないので、8月3日初日の今回再演が初見。
私が改めて言うまでもなく、既に定評を得ているとおり無類に優れた作品。
とにかく老若を問わず誰にでも見てほしい、オススメの舞台である。

1900年に初篇が発表された『オズの魔法使い』は、1939年制作のミュージカル映画の盛名とも相まって、アメリカの国民文学と言えるだろう。米国文化の洗礼を受けた戦後の日本にとっても、ある意味でそうかもしれない。名高い"Over the Rainbow"を映画の挿入歌と知らずに口ずさんでいる人も多い。それほど、浸透した物語である。
〈ウィキッド〉はその裏話。というよりも、ある種の規範となり権威とも化した『オズ』を相対化する、批評精神に裏打ちされ斬新な物語だ。

ここでは、『オズ』で定位された善悪の基準が逆転する。
ここでは、『オズ』で否定されるウィキッド=エルファバこそ、真の美質を持つ優れた女性である。
逆に、『不思議の国のアリス』的な意味で『オズ』の主人公たるドロシーは、ネッサローズの死骸から銀靴を奪って履く無節操な添景人物として「影絵」のかたちで描かれ、卑小化される。
心なきブリキ男、頭脳なき案山子、臆病ライオン、それぞれの役も大胆に読み替えられる。
何よりも〈ウィキッド〉の物語の根柢をなすのは「緑色の肌を持つエルファバ=ウィキッド」を疎外する「差別の構造」であり、彼女が「絶対の自由」を貫くことの困難さと、「ポピュリズムが、彼女=自由と平等、をいかに敵とするか」というきわめて今日的命題である。

『オズ』で「西の悪い魔女」として描かれる緑色の肌を持つウィキッド=エルファバは、実は真の才を持ち自由を標榜する優れた魔女だ。
母と贋魔法使い・オズとの不義の子である彼女は、マンチキン国提督たる実父から疎んじられ、周囲からは嘲られて育つが、足の不自由な妹・ネッサローズの介添え役として継子同然に扱われても妹を気づかい、芯の強い自由意志を失わない。
彼女は自身の才能を自覚、シズ大学の学長で魔法教師のマダム・モリブルや帝王となって君臨するオズの欺瞞性に気づき、ウィンキー国の王子フィエロとの愛を知ることによって人間として、女性として、大きく成長するものの、最後は社会体制の前で敗北。裏切り者として重拷問を受けるフィエロを案山子に変えることでわずかにその命を救い得て、二人手を携えいずこへか去ってゆく。

片や、『オズ』で「南の善い魔女」とされるグリンダは、ここでは何の才能もない軽薄女、長じてはマダム・モリブルに操られる虚しいカリスマである。
「ただ愛されたい」願望の強い彼女に悪気はないのだが、その時々の感情で動いてしまうので、エルファバと心を通わせ合ってからもひとたび自分が「善い魔女」と祭り上げられたが最後、エルファバを「悪い魔女」と信じ込む輿論に反論するまでの信念はない。
ただ、最後にエルファバがドロシーに水を掛けられて「殺された」あと(実は死んでいない)、自らの手でオズを追放、マダム・モリブルには永牢を命じ、その時点で国家に君臨する覚悟を固めて、ひとつの人間的変化は成し遂げている。

つまりこのミュージカルは、エルファバとグリンダとが「社会」と向き合うことによって変質し、成長し、片や道半ばで頓挫、片や成功、しかして「正義は敗北し、虚無的なポピュリズムが勝利する」という、砂を噛むような劇構造に支えられた「娯楽作品」なのだ。

楽しい、美しい、わくわくする音楽と場面とに満たされたこのミュージカルの中では、実は誰一人、幸せにはならない。

グリンダは、愛するフィエロからは結局、振り向いてもらえない。
死は免れたものの案山子になったフィエロはもう人間には戻れない。
ネッサローズはエルファバの魔法で足が立った直後マダム・モリブルの巻き起こした竜巻のため惨死する。
ネッサローズの横恋慕から死に瀕したボックはエルファバの魔法によって救われブリキ男に変身するものの彼女の助命の配慮には気づかず怨念のみが残る。
「家族」を欲し続けたオズが「エルファバこそわが娘だ」と気づくのは彼女が自らの命令通り「殺された」直後である。

劇中、「魔法だからと言って何でもできるわけではない」「一度使った呪文に取り消しは効かない」とエルファバが言うとおり、ここには時間の不可逆性、人生というものの「取り返しのつかなさ」がキチンと読み込まれている。
誰一人「幸福」を手にしないミュージカル〈ウィキッド〉のテーマは、日本人から見れば「無常」の一語で総括できる態のものかもしれない。

こうした批評性に満ちた娯楽作品を生み出すアメリカ文化の力。『オズ』に夢中になれる子供から『オズ』に懐疑を抱く大人まで、それぞれの愉しみ方ができる懐の深いこうした舞台作品は実に貴重だと思う。
当然、ウィニー・ホルスマンの脚本だけではなく、スティーヴン・シュワルツの音楽が際だって優れている点に大きな魅力があることはもちろんである。

冒頭の言葉のとおり、来年1月31日までの公演中に、未見の方には是非、一見をオススメしたい。

この日は、苫田亜沙子のグリンダに雅原慶のエルファバ。
どちらも良く訓練されて充分聴きごたえがあった。慾を言えば、第2幕のエルファバには苦悩を経て凄艶に成長した女の寂しい色気が欲しい。見方を変えれば、雅原は田舎出の冴えない女学生の雰囲気をあえて残す役作りだったようだ。「普通の女子」が巻き込まれる悲劇性を出すには、こうした方向性もあるかもしれない。
劇団四季とて、年嵩の役者に安定した味がある。マダム・モリブルの中野今日子の派手な独善性。オズに扮した佐野正幸は押し出しこそ不足するけれど、よく透った高音と巧みな節づかいがこの役の偽善性をよく写していた。

中に目立って精彩を放っていたのは、ボックの伊藤綾佑。
ネッサローザが提督位を継ぐマンチキン国の小人、という設定の彼は、実際に相当の低身長。だが、歌も芝居も小気味よく巧く、動きも活発で、いかにも才気渙発の趣が目立ち、しかも「不本意なネッサローズに束縛され、愛するグリンダには振り返ってもらえない男のあはれ」が横溢していて、すばらしい。
ああ、あと30センチ、せめて20センチ、10センチ、彼の身長が高かったら、フィエロでもラウルでも何でも似合うのに......
これは差別意識でも何でもなく、「舞台俳優、特に女性と並ぶ若い二枚目役は、背が低いより背の高いほうが勝ち」というのは大方に通用する原則なのだ。
だが、しかし、彼には技藝を磨くことによって、是非、中身のより大きな舞台人として成長して貰いたいと切に思う。
逆に言えば、私にとってこのミュージカルのボック役は、ちょっと彼以上の適役・快演は考えれない、というところである。
(調べたところ、彼は、山崎育三郎とは東邦音楽大学附属東邦高等学校声楽科での同級生だった由。なるほど。)

なお、〈ウィキッド〉にはセリフ部分も多い。このセリフ術は名高い「四季方式」の発声・発音に従っている。
人によっては「常に咽喉を開け前歯を見せるステロタイプがイヤだ」という向きも多く、その傾向は確かに否定できない。
が、先日の〈鹿鳴館〉でもつくづく思ったのだが、当代演劇界で卓越する平幹二朗のセリフ術は、確実にこの「四季方式」を基盤に成り立ったものである。
前日の帝劇〈二都物語〉でも、濱田めぐみ、今井清隆、福井貴一、岡幸二郎、四季出身者の美事な口跡はそれぞれみな個性的だ(濱田は初演のエルファバだった。これは実に良かったに相違ない......)。
つまり、「四季方式は、活かすも殺すも、当人の努力と才能次第」なのである。
では、努力と才能に欠ける場合はどうか、と言われると返答に困るけれども(笑)、少なくともその場合、「四季方式」を墨守する限り、恣意的感情のまま言い崩すよりも、コトバとしての意味性だけは客席に明確に伝わりやすい。
ことに、〈ウィキッド〉のように抽象的な思想性を秘めた作品にとって、役者の感情移入よりも「戯曲に書かれたコトバがキチンと伝わること」のほうが大切だ、とも言える。
その意味で、違和感を抱く人も多い「四季方式」のセリフ術にも、一定以上の意義がある。また、それに代わるメソッドとしては何が考え得るのか、など、好悪の感情を超えた命題は観客にとってもなかなか大きいのではないか、と思わせられた。

ちなみに、電通四季劇場「海」は冷房がよく効いています。
残暑激甚とはいえ、冷え症の方は相応の服装で見に行かれることをオススメします。

2013年8月 8日 | 記事URL

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