2014/1/10 〈瀧廉太郎の友人、と知人とその他の諸々〉 | 好雪録

2014/1/10 〈瀧廉太郎の友人、と知人とその他の諸々〉

日中は歌舞伎座の昼の部。
所用で後半〈松浦の太鼓〉からしか見られなかったが(お縫を勤める米吉の女ぶりが興行ごとに上がっている)、〈をしどり〉で福助に代わり遊女喜瀬川と雌鴛鴦の精を踊る魁春が良い。

決して踊技の巧みではない人とて、踊りそのものを純粋に楽しむ〈娘道成寺〉となるとダレるけれども、この出し物は芝居のクドキのように踊って見せて成功。攻めは不得手だが守勢に回ると強い魁春らしく、上下の巻で性格が変わっても息が持続してダレず、共演の橋之助・染五郎に比べて重心の低い身体づかいが際立って立派に見える。
下の巻で鳥身に変じた責メの振リを見ていて、こうした趣向の「因果物」が似合う人だから〈柳〉と同じく歌右衛門が若いころ一度だけ勤めた〈鷄娘〉は魁春にどうだろうかと思った。

夜は草月ホールで〈瀧廉太郎の友人、と知人とその他の諸々〉と題する音楽劇。
主催者のサイトに以下のような概略が掲載されている。

時は明治時代。場所は瀧廉太郎(鯨井康介)が西洋音楽を学ぶドイツ。日本で2番目にドイツに留学した瀧と、最初の留学生、幸田幸(和音美桜)。ドイツで暮らす幸にはフク(石川由依)がそばにいて、暮らしを手伝ってくれている。
そこに文部省の役人・野口貞夫(佐野瑞樹)が唱歌の作曲を依頼しにやってきた。野口の現地での通訳やガイドを兼ねて、岡野貞一(原田優一)も同行してきた。岡野は瀧と同時期に東京音楽学校に学び、優れた楽曲を世に出しつつも今ひとつ名前が世に出なかった音楽家だ。名誉な作曲依頼にも、表情が冴えない瀧。瀧には病気に関する隠し事があった。

日本が誇る二人の名作曲家と彼らの間に揺れたり支えたりする女性たち。国是として日本の教育に西洋音楽を取り入れたい野口も交え、作者不詳の文部省唱歌ができたイフ、そしてこれらが日本の新しい音楽につながっていたのではないか、というイフをハートフルに描く音楽劇です。

脚本・演出は登米裕一。瀧の〈荒城の月〉〈花〉はもちろん、40代以上の世代ならまだ聞き覚え歌い憶えのある「小学唱歌」をふんだんにちりばめた1時間40分はなかなかよく書けている。藝術至上主義の立場から「音楽に立ち向かわず」官吏(岡野は「上野」の助教授)に転じた岡野を「友」と呼ばず切り捨てる瀧が、後半、死病・結核の発覚以来作曲の筆を折っていたことを岡野に指摘され「死を前にして音楽から逃げるな」と反論される対照は、劇的論理から考えて相応の重さを発揮していた。
半面、国策に乗じて西欧音楽移入に粉骨することと、藝術家として音楽に向き合うこととは、やはり一つではなかろう。この劇では両者に幸福な一致を求めてその議論はないのだけれど、「国是」としての音楽政策に現代人としてそこまで無反論で良いものか、どうか。
それが目的になってはいけないことは承知の上で、やはり芝居を支えるのは、レトリックであり劇的思想である。

ミュージカル俳優とて歌唱力に優れた原田と和音の帝劇常連「レミゼコンビ」に挟まれて、大舞台で主役級を演じた経験に乏しい鯨井康介は押し出しの点で遜色あるかと思わされたが、その「色の違い」を逆手に取り、小空間で内向する突き詰めた心理劇の方法で烈しい役柄を孤独に演じきって成功。加えて、どこかノホホンとした佐野瑞樹が良い味を出し「上置き」の存在感を示した。
草月ホールの狭い舞台に一杯道具。数々の音楽を奏でる肝腎のピアノは赤塗りの装置で(実際は音楽監督・YUKAが舞台下手で巧みに弾奏)、このシュールな違和感はいかがなものかと思われたが、これはホールの備品だそうで、予算の関係で致し方なく......とは幕内の事情。なかなかの力作ながら3日間で総計5公演。オススメする間もなく千秋楽とはモッタイナイことである。
こうした興行が、東京都内で日々どれだけ持たれていることだろうか......。

今回は元宝塚花組の高汐巴さんたちをお連れし、終演後は登米くん原田くんたちも交えて以上のようなことを放談。楽しい夜でした。

2014年1月10日 | 記事URL

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