2014/1/13 サントリーホール「成人の日コンサート」 | 好雪録

2014/1/13 サントリーホール「成人の日コンサート」

私の世代で「成人の日」といえば「1月15日」と刷り込まれている。
毎年、どの日がどうやら、いまだにピンと来ない。

銕仙会の初会能が例年この日だから常だとそれを見るのだが、今日は縁あって六本木・サントリーホールで開催された「第25回成人の日コンサート2014 」に行ってきた。
成人式帰りの晴れ着の若者が多いかと思うとさにあらず。主催元「みずほファイナンシャルグループ」の関係か、その業界の人々らしい観客が大多数であった。

番組は、冒頭にヴァイオリン独奏・山根一仁による〈パガニーニアーナ〉。
続いて能〈石橋 連獅子〉を半能に準じワキを出さず亂序以降。
休憩後にオペラ〈蝶々夫人〉抜粋を「公爵ヤマドリの回想」と銘打つ音楽物語として。

もう25回を数え〈石橋〉も〈バタフライ〉も過去に出されているようだが前者はともあれ後者はメデタイ演目とは言えず、ナタン・ミルシテイン作曲の冒頭は技巧だけの虚しい小曲。
全体に何となく釈然としない取り合わせではある。

私はサントリーホールで能を見るのは初めて。音響面ではやはり響き過ぎて「湯屋の謡」である。
白獅子が塩津哲生。赤獅子が狩野了一。狩野はアゴが出る。不調気味だが塩津の身体には臍下丹田に収斂する「引き」があるのに対し、若い狩野の動きには締め括りがないのが気になった。

後半の「音楽物語」では、オペラ本編だと単なる「振られ役」に過ぎない「ヤマドリ」が情意兼ね具えた紳士となっていて、岡幸二郎が歌わず進行役として語りだけを勤める。当初は予定になかった蝶々さんの子「ドローレ」として加藤清史郎が出てくるのがご愛嬌。
ほかの配役は、蝶々夫人:腰越満美、ピンカートン:田代万里生、シャープレス:福島明也、スズキ:永井和子。指揮:高関健の新日本フィルハーモニー交響楽団。

今日の「お目当て」のひとつは、昨年10月・帝劇〈エニシング・ゴーズ〉ビリーでナイスな快演を見せてくれた「ミュージカル俳優」田代万里生が本格のオペラを歌うことだった。私は彼の明朗なキャラクターやその歌声が大好き。
もともと藝大声楽科出身で父は熟練テノール・田代誠とあれば万里生は正統派の「オペラ歌手」だが、私は帝劇でも日生でもマイクを通した彼の歌しか聞いたことがない。今日はさすがに肉声の演唱である。
結果はいま一つというところ。これは是非なかろう。

マイクを用いないオペラ、オペレッタと、マイクを用いるミュージカルとでは、声の表現の根本が異なる。作品としてある種のオペレッタとミュージカルとはきわめて近い関係にあっても、表現のレベルではやはりこの「マイクの有無」が両者弁別の要なのではないか、とさえ思われるほどだ。
オペラの正統な発声でミュージカルを演ずると、大味なだけでなくマイクで増幅されてかなり喧しい。その制約が現在の万里生の声を形づくっているようだ。
彼の声質はネモリーノやドン・オッターヴィオ向きの軽妙なリリコ・レッジェーロだから、リリコ・スピントからドラマティコに傾くピンカートンは適さない。自分と役との声質のズレが歌手生命に甚大な影響を及ぼすと知る賢明なオペラ歌手ならば決して引き受けないところである。今回は一日限りの「趣向」として配役されたのだろう。

今日聴いていると(私の席・1階中央は決して悪い位置ではない)万里生の声量が足りないばかりでなく声そのものが前面に飛んでこない。すでに発声がマイク向きに調整されているのかして、鎖骨から上、口の周囲ばかり響いて、全身に声が満ちていない。イタリア語の発音も不明瞭なのは「横隔膜が落ち、咽喉が開き、上体すべてを響かせる」理想的な発声になっていないことにも原因しよう(イタリア語は口先だけでは発音・発語できない言語である)

ただ、これは彼の資質や能力の問題ではあるまい。
返す返すも、田代万里生が「ミュージカル界で生き延びてゆくための声や歌唱法を選択した結果」なのだと私は思う。

単に「人の心を打つ歌」とはいえ、歌唱の様式にはそれぞれ抜き差しならないものがあって、ジャンルによって「こうあらねばならない」規範が決まっている。今日の万里生と他の「オペラ歌手」たちとの間に生じた違和感は、「彼ら彼女らがどういった性質の舞台に生きているか」というアイデンティティの問題であり、よく似ているようでもオペラとミュージカルの間にはそれだけ隔絶した「何か」が横たわっている、ということなのだろう。

こればかりは実際に聴いてみなければ痛感できないことである。
田代万里生のピンカートンは、その意味でまことに貴重な配役だった。

2014年1月13日 | 記事URL

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